私たちが暮らす民主主義の国では精神の自由が保障されており、他者の権利を侵害しない範囲において自由な内心を持つことができます。よって個々人がどのような信条・理念・思想を持っていようとそれは個人の自由です。
ただ、個人的には否定を信条のコアに据え置くことをあまり推奨しません。それはあまり健全な方向へは向かないのではないかと考えています。
反〇〇の弊害
何かに反対することを否定したいわけではありません。社会情勢や倫理観に基づいて否定されるべき物事は無数に存在していますので、対抗勢力としてのアンチパターンは世の中に不可欠です。
ただ、『反〇〇』のような形の否定を手段ではなく信条の核となる目的に据えた場合、それはあまり望ましい結果を招かないと考えています。
まず第一に、否定は易きに流れるものです。
率直な話、反対することはとても容易です。なにせゼロからの理論構築が不要であり、他者が構築した土台に立脚してそのアンチパターンを持ち出すだけで否定は成り立つためです。
凄く凄く嫌味な言い方をすれば、頭を使わなくてもできるのが『反〇〇』です。もちろん否定する内容や対象によっては高度な理論構築が必要な場合もありますが、そういったことをせずとも易く行える行為が『反〇〇』だと言えます。
よって否定を信条のコアにして否定ばかりをしていくと気付かぬうちに思考力が衰えて物事を深く考えることが難しくなってしまうかもしれません。
第二に、否定は必ず攻撃的な信条となります。
これは特に説明の要はないでしょう。否定とは既存の物事に対するアンチパターンであり、本質的に攻撃行動です。そして攻撃とはアクティブではありますがポジティブではありません。場合によってはネガティブの色合いが濃くなります。
必ずしもポジティブでなければならないとは言いませんが、人生を豊かに生きるためにはある程度のポジティブさが不可欠です。よって否定を信条のコアとすることは自らの人生を豊かにする役にはあまり立たない可能性が高くなると考えます。
最後に、『反〇〇』の形で立脚する信条は極めて脆いものです。
その信条は反対すべき『〇〇』へ自らの存在を絶対的に依存してしまっており、否定行動に成功してその対象を討ち滅ぼした後に自らの存在意義を確立できません。結果として、否定を信条のコアとする人は『〇〇』を撃滅するまで突き進むことが叶わなくなります。
押すに押せず、引くに引けない、にっちもさっちもいかない足踏みをせざるを得ない信条は、前向きでも後ろ向きでもない滞留を人生にもたらします。その閉塞感はやはり豊かな人生をもたらすとは言い難いでしょう。
結言
何かしらを否定する行動は目的ではなく手段であったほうが良いです。否定の行動はそれに反対することによって実現したい目的があって初めて意味があるものとなります。
よって自らの信条のコアの部分には、否定すること自体が目的化しないよう実現したい目的を据え置くことが良いと私は考えます。少なくとも『反〇〇』を信条のコアとしてしまうことはさほど有益ではないでしょう。
余談
少し話は逸れますが、有名人や人気者に対してアンチが蔓延るのも同根です。アンチはお馬鹿さんでもできるため、小人閑居して不善をなすを地で行くようなこととなります。
そういったアンチと高度な否定を十把一絡げにすべきではありませんが。