たまには珍しく、少し直接的な苦言を。
失敗は必ず生じる上、目にもつきやすい
新しいモノやコトにトラブルは付きものです。特に複雑系の大きなシステムを変える時には失敗せずに順調に置き換わることのほうがレアケースだと言えます。
なぜならば私たちは預言者でも予知能力者でもない以上、ありとあらゆる外乱を予測し切ることはできませんし全てのリソースを最適に活用し切ることも不可能なためです。想定外のトラブルはどこからしらで必ず起こり、意図せぬ何かしらでリソースの不足や過剰が絶対に生じます。
上手くいったプロジェクトとは失敗やトラブルが生じなかったのではなく、失敗やトラブルに対処するだけのリソースがあったために上手くいきます。
また、人々の認知の問題として『現状の事柄』よりも『新しい事柄』のほうが失敗の印象が強くなります。
なにせ現状の事柄とはたとえ不合理で不平等で不自由で導入時に失敗があったとしても「今は失敗していない」からこそ継続されているのであり、相対的に『新しい事柄』の失敗は目立つためです。
よって新しい事柄を導入した際の失敗は人々の目にとまりやすくなります。
だからこそ新しいモノやコトが最初から完璧に組み上げることは期待すべきではなく、必ずどこかしらに綻びや失敗が生じることを人々は許容する必要があります。失敗に不寛容であることは変化を否定することと同義です。
批判と批難の線引き
もちろん失敗自体は批判されて然るべきです。批判無き挑戦は暴走に至るものであり、正しくレールに沿って進んでいるかをチェックするための批判的精神は不可欠です。
ただし失敗を問題視するのであれば失敗を批難するのではなく「失敗のフォローをどうすべきか」「次に失敗しないためにはどうすればいいか」、そういった適切な批判が必要です。
(批難と批判の違い)
批判は相手の意見に対してその過ちや欠点を指摘し、正すべきであると論じる行為です。相手の意見に存在する穴を埋めたり不備を改善して再構築するための建設的な行為であり、そこに相手を攻撃する意図は存在しません。また相手の意見を正して向上させるためにも根拠は不可欠です。
批難は相手の意見に存在する過ちや欠点を責める行為です。正しく過ちや欠点を峻別するためにも根拠を持つ必要があります。
根拠に基づいた相手の意見への指摘という点では批判に似た行為ですが、しかし相手への攻撃意図を含むかどうかで批判と明確に区分されることになります。
逆説的に、批判は「相手を責める意図を一切含んではいけない」「わずかばかりも罵言を含んではいけない」行為だとも言い変えることができます。少しでも相手を責める意図があったり罵言を含んでいれば、それは批判ではなく批難へと変貌します。
前述したように新しいモノやコトの導入では必然的に失敗が生じます。
その失敗への批難は無意味です。泣いている赤ん坊にうるさいと言うようなもので、それを言ったからといって何か良性の変化があるわけでもありません。むしろうるさいと騒ぐ人こそが周囲からすれば「うるさい」存在に成り果てるだけです。
そのような存在は、率直に害悪だと言えるでしょう。
結言
より良いやり方の提案をするなり、やらないことによる利得を計算して提示するなり、意味のある生産的な代替案を用意して提示することが批判であり、そういった批判をせずにただ批難して妨害する人間は邪魔以外の何物でもありません。
社会問題や政治も同様に、失敗をあげつらい駄目だ駄目だと批難する人はたとえ口だけであっても人々の士気を挫き変革を阻害し足を引っ張っているだけだと自覚する必要があります。
厳しい話ではありますが、何か口を出したいのであればせめて建設的な批判を行う努力が必要です。
もっと身近な話をすれば、新しいことを始める会議の場で「あれは駄目だ、これは駄目だ」と騒ぐ人が居たらたまったものではない、そういったことです。社会問題のように大きなテーマであっても「会議を邪魔する人」は歓迎されません。