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青木真兵 著『資本主義を半分捨てる』より。ちょうどよく生きるためには?

 僕たちは山村に移り住むことで、市場原理では測れない価値に気がつきました。市場原理が他者ニーズによって駆動されているのだとすれば、その正反対の世界がそこに広がっていたのです。他人がどう思おうと関係なく、ただ自己ニーズによって存在しているものに山村は満ちていました。
(青木真兵 著『資本主義を半分捨てる』ちくまプリマー新書、2026)

 

 こんばんは。詳しくは書けませんが、週のはじめからイライラする出来事が立て続けにあって、これを書いている今も、まだ心のどこかというかほとんど全部がざわついています。帰宅後、藁にもすがる思いで新井洋行さんの絵本『かいじゅうポポリはこうやっていかりをのりきった』を開いてみたものの、

 

 乗り切れず。

 

 これも資本主義のせいでしょうか。あるいは能力主義のせいでしょうか。私も山村に移り住みたくなりました。

 

資本主義を半分捨てる (ちくまプリマー新書)

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 青木真兵さんの『資本主義を半分捨てる』を読みました。奈良県の東吉野村という山村に移り住み、奥さんと一緒に「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」という活動をしているという著者が、ちょうどよく生きるためにはどうすればいいのかという問いの周辺で思考を重ねていく人文書です。都会から山村に移住している時点で、そして私設図書館をつくって10年近く続けているという時点で、おもしろいに違いない。

 

 目次は以下。

 

 第一章 僕たちが山村に越して分かったこと ── 二つの原理を行ったり来たり
 第二章 社会全体を学びの場としてとらえる ── 脱学校、脱病院の思想
 第三章 働くとはなにか ── ルチャ・リブロとヴァナキュラー
 第四章 数値化できないものについて語る ──「オムライスラヂオ」
 第五章 尊厳を認め合いながら生きるには ──『ジェンダー』

 第一章に書かれている「僕たちが山村に越して分かったこと」は、もうだいぶ昔のことですが、私が都会から漁村に越したときに感じたこととよく似ています。都会は他者ニーズに満ち、漁村は自己ニーズに満ちている。田山花袋の『田舎教師』に出てくる清三は病みましたが、現代の田舎教師は病みにくい。正確には、現代の山村教師や漁村教師は病みにくい。それは、山村や漁村の学校は都会のそれとは違って保護者ファーストではないからです。少なくとも、私の初任校はそうでした。

 

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 えっ、他者ニーズって何かって(?)。次年度、うちの子を〇〇さんと違うクラスにしてください。それから〇〇さんと同じクラスにしてください。できれば〇〇さんとも同じクラスにしてください。簡単にいえば、そういうことです。

 

 イライラ。

 

 都会の学校は他者ニーズに満ちています。ちなみに自己ニーズの意味は、青木さん曰く《売れるかどうか、評価されるかどうかではなく、自分にとって意味があるかどうか。その実感》とのこと。「売れるかどうか」の資本主義や、「評価されるかどうか」の能力主義とはかけ離れたところにあるニーズというわけです。山の生き物や海の生き物は、まさにそうでしょう。もちろん木々も。

 

 彼らは「生きているから、生きている」。その営みに特別な理由はなく、ただ食べ、排泄し、繁殖し、生を繰り返しているだけです。もしかすると自己ニーズとは、まさにこうしたものなのではないでしょうか。他人と比較して測れるものではなく、時には理性を超えてしまう力を持つもの。現代社会のつらさは、この自己ニーズが承認されていないところにあるように思います。

 

 だから、資本主義を半分捨てよう。自己ニーズ中心の世界と、他者ニーズ中心の世界を行ったり来たりしよう。ちょうどよく生きるためには、その往還が必要だから。というのが、著者の主張です。他者ニーズが中心の世界も、つまり資本主義も、半分は認めているというところがポイントでしょうか。要は、どちらか一色になってしまっては、ちょうどよくないということでしょう。だって、

 

 にんげんだもの。

 

本当に大切なのは、その子の答えを社会的な価値基準でジャッジするのではなく、そのまま受けとめることです。大人が一度社会的価値という物差しを脇に置き、同級生との比較や点数といった評価を離れ、その子が「ここにいる」という事実そのものを承認することだと思っています。

 

 第2章より。この文章を読んだときに、あっ、相田みつおっぽい、ではなく、勅使川原真衣さんっぽいと感じました。能力主義を超えて、の勅使川原さんです。能力主義を超えて、と、資本主義を半分捨てる、はちょっと似ています。その勅使川原さんがよく著書に使っている言葉が「存在の承認」と、

 

「組み合わせ」。

 

 何よりも僕自身、得意なことと不得意なことの差が大きく、置かれた状況や環境、特に「誰と一緒にいるか」という要素によって自分のパフォーマンスが大きく左右されてきました。

 

 これも第2章より。ここも勅使川原さんっぽい。組み合わせが大事という話です。だからといって「うちの子を〇〇さんと違うクラスにしてください。それから〇〇さんと同じクラスにしてください。できれば〇〇さんとも同じクラスにしてください」は、違う。

 

 全然違う。

 

 

 そうそう、勅使川原さんに加えて、図書館員だった松岡享子さんのことも連想しました。第3章に《図書館は縁を生み出す「有縁の場」になりうる》とあったからです。松岡さんも同じようなことを書いていました。青木さんの奥さんは図書館司書なんだそうです。二人が「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」という活動をしているのも、それ故のこと。

 

 行ってみたいなぁ。

 

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 イライラが続いています。寝不足になったらさらにイライラしそうなので、紹介の途中ですが、そろそろ寝ます。青木さんの小学校時代の話とか、イヴァン・イリイチの話とか、それからそうはいっても「能力」や縁がなければ他者ニーズの世界と自己ニーズの世界を行ったり来たりするのって難しそうだな、という話とか、紹介したかったことを、

 

 半分捨てる。

 

 おやすみなさい。

 

 

かいじゅうポポリは こうやって いかりをのりきった (かいじゅうとドクターと取り組む 2)

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