
トロイア戦争の結末
マリー・アントワネットゆかりのオペラ、グルックの『トーリードのイフィジェニー』。
ギリシャ神話に基づいた物語は、いよいよクライマックスです。
イピゲネイア(イフィジェニー)の実家、ミケーネ王家では、彼女が遠く離れたタウリス(トーリード)にいる間に、凄惨な事件が起きていました。
まだ、イピゲネイアは知る由もありませんが、悪夢から、不吉な予感に苛まれています。
いったい何が起きたのでしょうか。
イピゲネイアが犠牲になることによって、ギリシャ軍の大船団は、トロイアに向けて出帆することができました。
しかし、トロイア戦争は実に10年もかかったのです。
それは、オリンポスの神々が、てんでバラバラに、ギリシャ側、トロイア側に味方したり、途中で見限ったりしたのも原因のひとつでした。
日本の応仁の乱で、足利将軍が風向きによって、西軍についたり東軍についたりして戦さを長引かせたのを思わせます。
その間、イピゲネイアの婚約者だったアキレウスも英雄的な死を遂げていました。
最後は、知将オデュッセウス(ユリシーズ、オデッセイ)の「トロイの木馬」作戦で、難攻不落を誇ったトロイアも陥落、滅びました。
ギリシャ各地から参戦した武将たちは、それぞれ戦利品を持って帰国しますが、トロイアびいきだった神々に嫌がらせをされます。
オデュッセウスの船は海神ポセイドンの起こした風に翻弄され、帰国までさらに10年も地中海じゅうをさまようことになります。
妻とその愛人に殺された、アガメムノン王

イピゲネイアの父、ギリシャ軍総大将だったミケーネ王、アガメムノンは、トロイアの王女カッサンドラを戦利品として、故郷に凱旋します。
オデュッセウスの妻、ペネロペは、夫のいない20年もの間、自分に言い寄ってきた男たちを退け、誘惑に勝ち、貞操を守り抜きました。
しかし、アガメムノンの妻、王妃クリュタイムネストラは、王位に野望を持つ親族の男、アイギストスの誘惑に負け、関係を結んでしまっていたのです。
そこに、もはや生きて帰って来ないと思っていた夫王アガメムノンが戻ってきて、さらに敵の王女まで愛人として連れてきたのを見て、アイギストスは、クリュタイムネストラに、夫殺しを持ち掛けます。
そして、アガメムノンが久々の我が家でゆっくり風呂に入っているところに、網をかぶせ、アイギストスが刺し殺し、クリュタイムネストラが斧で首を打ち落とします。
彼女は、そのままカッサンドラの首も刎ねます。
自分も不倫をしているのに、夫の愛人まで殺すとは…。
それとこれとは別、という理屈なのでしょうか。
ちなみにカッサンドラは、かつて太陽神アポロンに愛され、その報酬として予知能力を授かりました。
しかし、自分がやがてアポロンに捨てられる未来が見えてしまい、彼を拒絶するようになり、アポロンから『彼女の予言を誰も信じないように』という呪いをかけられてしまいました。
そのため、祖国トロイアの滅亡も、自分がミケーネで殺されることも、全部予見していたのですが、誰も耳を貸さず、そのまま現実になってしまった、という可哀そうなキャラクターです。
『トロイアのカッサンドラ』と呼ばれる悲劇です。

父の仇は母!

さて、母とその愛人によって父を殺された、イピゲネイアの弟オレステスと妹エレクトラの兄妹は国を逃れます。
そして、復讐の時を待ち、8年の時を経て帰国し、エレクトラの手引きにより、親友で従兄弟のピュラデスの助力を得て、父の仇である母クリュタイムネストラと、その愛人アイギストスを討ち果たしたのです。
しかし、父の敵討ちではあるものの、実母に手を下したオレステスは、復讐の女神エリニュスによって、母殺しの罪を責め立てられることになります。
クリュタイムネストラは、迫るオレステスに対し、お前には自らこの乳をあげたのだよ、と胸を見せて命乞いをしたのですが、彼はその乳房に剣を突き通したのです。
姦通して父を裏切った上に殺したのですから、母への恨みは家族の情を越えていました。
それでも、母殺しは大罪。
復讐の女神たちは、どこまでもしつこく彼につきまとい、時には母の遺体を持ち出してきて、彼に突きつけるのです。
オレステスはついに気が触れ、狂気に陥ります。
母殺しの罪のゆくえ

どうすれば贖罪ができるのかアポロン神に神託を求めたところ、タウリスの地に祀られているアルテミスの像を持ち帰るべし、というお告げを得ます。
そして、ピュラデスとともにタウリスに向けて船出をしたところ、嵐に遭って難破し、結果的にタウリスに漂着します。
現地人のスキタイ人には、漂着した外国人はアルテミス神に生けにえとして捧げる風習がありましたから、イピゲネイアが祭司を務める神殿にふたりを引き据えて来た、という流れです。
オレステスは姉イピゲネイアはとっくに生けにえにされていると思っていますから、タウリスの祭司になっているとは夢にも知りません。
また、イピゲネイアが弟と別れたのは、彼がまだ幼い頃ですから、顔も知りません。
それぞれに数奇な運命をたどった姉と弟が、この地で出会うことになるのです。
では、音楽を聴いてゆきましょう。
『トーリードのイフィジェニー』登場人物
※ギリシャ語表記、()内はフランス語読み
イピゲネイア(イフィジェニー):アルテミス神殿の女祭司長、ミケーネ王アガメムノンと王妃クリュタイムネストラの娘
オレステス(オレスト):イピゲネイアの弟、アルゴスとミケーネの王
ピュラデス(ピラド):オレステスの親友
トアス:タウリス(トーリード)の王
アルテミス(ディアーヌ):狩りと月の女神
グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー(タウリスのイピゲネイア)』(全4幕)第2幕前半
Christoph Willibald Gluck:Iphigénie en Tauride, Wq.46, Act 2
演奏:マルク・ミンコフス(指揮)ミレイユ・ドランシュア(ソプラノ:イピゲネイア)、サイモン・キーンリーサイド(オレステス:バリトン)、ヤン・ブーロン(ピュラデス:テノール)、ロラン・ナウリ(トアス:テノール)、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル(オーケストラと合唱団)【1999年録音】
注)音楽はハイライトのみの抜粋です。
神殿内部の広間では生けにえを捧げる準備がなされ、ピュラデスとオレステスが繋がれている。片側には祭壇がある。
第14曲 エール(アリア)
わたしを苦しめる神々、
私に罪を犯させた神々が、
地獄の口を足元に開ける!
その拷問さえ私にとっては楽だ!
私は友情を裏切り、
自然の神を裏切った
最悪の罪の限度さえ超えてしまった
神々よ、罪人を罰し、
その正義を示したまえ!
第2幕が開くと、鎖につながれたオレステスとピュラデス。まず、ピュラデスが不気味な静けさに不安を漏らしますが、オレステスはさらに錯乱状態です。彼は、母殺しの罪で自分が死ぬ覚悟はできているのですが、親友ピュラデスまでが巻き添えになって、死ぬ運命にあることが今は耐えられないと訴えます。そして狂乱状態で歌うのがこのエール。波のように次々と繰り返し押し寄せる音型が彼の焦燥と切迫感を表現しています。
第16曲 エール(アリア)
ピュラデス
幼い頃から一緒だったわたしたちは、
いつも同じ望みをもっていた
ああ!
わたしの心は以前から、
わたしたちを結びつける定めを受け入れている
運命はふたりを一緒に罰してくれるのだから、
その厳しさを非難するのはやめよう
墓場がふたりを一緒にしてくれるなら、
死もまた喜ばしいものだ
ひたすら自分を責めるオレステスに対し、ピュラデスは、自分はもう死ぬ覚悟はとっくにできている、君と一緒に死ねるとは、この上ない喜びだ、と、慰めのエールを歌います。ヴァイオリンの優しい音型が、彼の優しさと誠実さを表わしています。

第18曲 レシタティフ
この恐ろしい岸辺を守ってくださる神々よ!
血に飢えた神々よ、
雷を落とし、
わたしを押しつぶしてください!
(倒れる)
ふたりが友情を確かめ合っていると、スキタイ人の祭司がやってきて、ピュラデスだけを連れていってしまいます。ふたりで死ねるならば、と誓い合ったばかりなのに、引き離されてしまうということで、オレステスは再び絶望の淵に落とされます。壮大な音楽が、抗い難い運命の力を示し、オレステスは、いっそのこと早く自分を滅ぼしてください、と訴えます。
第19曲 エール(アリア)
気が遠くなってきた!
わたしの不幸にはまだ天の怒りが残されているのか?
不幸の極みに達した!
親を殺したオレステスを、
まだ生かしておくのですか?
正しい神々よ!
復讐する天よ!
ああ、気が遠くなってきた!
(力を失って眠りにつく)
絶望が極限に達したオレステスは、だんだん気が遠くなってゆきます。あまりの精神的苦痛に、無心状態になってきたのです。音楽もだんだん弱くなり、彼を夢想の世界に誘ってゆきます。
第20曲 パントマイムとレシタティフ
復讐の女神たちが現れて、オレステスを囲む。何人かの女神は彼の周りで恐怖を与える無言のバレエを踊り、他の女神たちは彼に語りかける。
復讐の女神たち
自然の神と怒り狂う神々の仇をとりましょう!
彼への責め苦を考えましょう!
彼は母親を殺しました!
ああ!
復讐の女神たち
情けは無用です
彼は母親を殺しました!
自然の神と怒り狂う神々の仇をとりましょう!
ああ!
何という責め苦!
復讐の女神たち
まだまだ手ぬるい
自然の神と怒り狂う神々の仇をとりましょう!
(クリュタイムネストラの亡霊が復讐の女神の中央に現れ、すぐ消える)
幽霊だ!
ああ!
復讐の女神たち
情けは無用です
彼は母親を殺しました!
お情けを!
復讐の女神たち
情け?
この人でなし!
彼は母親を殺しました!
自然の神と怒り狂う神々の仇をとりましょう!

しかし、連れてゆかれた夢の世界は、さらに恐ろしい復讐の悪夢でした。ずっとオレステスにつきまとっていた復讐の女神たちが再び現れ、不吉な踊りをしながら彼を責め立てます。最初の音楽は、先のレシタティフと同じですが、さらに威厳と迫力が増しています。オレステスは夢うつつの中でうなされ、苦しみます。そして、胸に彼が突き立てた短剣が突き刺さったままの、母クリュタイムネストラの遺体が現れます。オレステスはそれを見て、さらに錯乱を深めてゆきます。
数々の名画のテーマとなったギリシャ神話の有名な場面ですが、音楽で表現されたのはこのグルックのオペラが最上といってよいでしょう。
さあ、この生き地獄に落ちた業の深い弟に、姉イピゲネイアにどう関わってゆくのでしょうか。
それは次回に。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。

