
音楽の力を讃える音楽
今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕の後半です。
亡き愛妻エウリディケを取り戻すべく、生きた人間が決して行ってはいけない冥界に降りていったオルフェウス。
襲いかかる恐ろしい復讐の女神たち、地獄の怪物、亡霊たちを、悲しみに満ちた歌で鎮めます。
心無き者の心さえ動かす、音楽の力。
この神話は、遥か古代から、音楽が神秘の力を持っていたことを示す物語です。
そして現代人も、音楽の力によって生かされている、といっても過言ではないでしょう。
これは音楽によって音楽を讃えるオペラなのです。
死者の楽園、エリュシオンの野

さて、地獄から脱したオルフェウスは、いつしか楽園にいました。
花々が咲き乱れ、心地よいそよ風に木立は揺れ、緑あやなす野原が広がります。
そこでは、美しい精霊たちが歌い、踊り、戯れています。
ここは、エリュシオンの野と呼ばれ、冥界の中で、死者のなかでも生前正しい行ないをした者や、神々に愛された英雄たちの魂が永遠に安らぐところとされています。
ゼウスが、美しいテュロス王女エウローペ(ヨーロッパの語源)と交わって生まれた、正義の人ラダマンテュスが治める世界で、アスフォデロスの花が咲き誇り、白ポプラの木が生い茂っています。
『いたるところに幸せな魂が住んでいる。彼らは木立の中で暮らし、苔むした床に横たわり、牧草地を流れる水晶のような小川のせせらぎのほとりにいます。道はなだらかな丘を越え、曲がりくねって、至福の草原を通って行く。』
キリスト教でいうところの天国、仏教でいうところの極楽浄土にあたります。
パリの大通り「シャンゼリゼ」の「エリゼ」はこのエリュシオンのことです。
フルートの名曲「精霊の踊り」

さて、この楽園は、グルックのオペラではどのように描かれているでしょうか。
王妃マリー・アントワネットの肝いりで改作した「パリ版」では、オリジナルの「ウィーン版」よりもバレエの比重を高めています。
場面は、地獄から一転、天国的な精霊たちの踊りで始まります。
「パリ版」では、「ウィーン版」よりも拡充され、踊りにフルートの独奏が印象的な中間部が挿入されています。
これが、あまりポピュラーではないグルックの音楽の中で、例外的に有名な「精霊の踊り」です。
フルートの名曲とされていますが、戦前にヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーによって中間部が編曲され、「メロディ」と名付けられてさらに有名になりました。
そのくらい、メランコリックで心に沁みる名曲です。
地獄で恐ろしい目に遭ってきたオルフェオは、美しい田園風景に癒されますが、エウリディケに逢いたくてたまらず、身を焦がします。
精霊たちは、意地悪なくらい焦らしたあげく、ついにエウリディケを夫の元に連れてきます。
それでは、まずはパリ版の2曲から聴いていきましょう。
グルック:オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕後半
Christoph Willibald Gluck:Orfeo ed Euridice, Wq.30, Oct 2
第2幕 第2場
〔緑なす森、花咲く草原、ゆったりした木陰があり川や小川の流れる楽し気な景色。(ウィーン版)〕
〔舞台は楽園。花に覆われたゆりかご、木立、泉と緑の絨毯が見え、それらの上でさまざまな群れに分かれた精霊たちが休んでいる。(パリ版)〕
【パリ版の追加曲】精霊たちのバレエ:ラン、非常に優しく
演奏:マルク・ミンコフスキ指揮 レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル、
有名な「精霊の踊り」です。イタリア語の「ゆっくりと」を表す「レント」にあたる、「レン」とされ、優雅というより素朴な趣きです。まるで、静かに明け初める夜明けの田園のよう。空気が澄み切っています。中間部の「メロディ」は、まだ暗い森の中に戻ったかのような、哀切な響きです。その孤独な旋律は、まだ愛する妻に会えないでいる、オルフェウスの切ない心の内を表しているかのようです。
【パリ版の追加曲】精霊たちのエール
一人の精霊
この愛すべき
穏やかな地には
幸福が住んでいます。
至福に満ちた心地よい場所です。
ここには魂をかき乱すものは
何もありません。
快い陶酔が
いたるところに
穏やかな幸福をもたらしています。
そして暗い寂しさは
この罪のない場所では
消えてなくなります。
すべての精霊たち
(繰り返し)
夜が明け、目を覚ました精霊たちが朝空に向かって歌うかのようなエール(アリア)です。まず、ひとりの精霊がリードし、精霊たちがそれに続きます。伴奏の持続音はミュゼットのように田園を表しています。
それでは、「ウィーン版」に戻ります。
第16曲 バレエ:アンダンテ
演奏:ルネ・ヤーコプス(指揮)フライブルク・バロック・オーケストラ、RIAS室内合唱団、ベルナルダ・フィンク(オルフェオ:カウンターテノール)【2001年録音】
先に取り上げた、パリ版「精霊の踊り」の初版、「ウィーン版」です。テンポはやや速いアンダンテで、中間部はありません。パリ版に比べてメランコリックさが無く、比較して聴くと、グルックがパリ版でさらに表現を深めようとしたことが分かります。
第17曲 アリオーソ
なんと澄んだ空!
なんと輝かしい太陽!
なんと新しくうららかな光なのだろう!
なんという甘く魅力的な響きを
鳥たちの歌
小川のせせらぎ
そよ風のささやきは
作り出していることだろう!
ここは幸せな精霊たちの住むところだ!
ここではすべてのものが
安らかに満足している。
だが私は違う。
もし愛しいひとを見つけることができなければ
私には望みはない。
あのひとの美しい声
愛のこもったまなざし、
やさしい微笑みこそ
私のすべて
私の愛の至福!
だが、いったいあのひとはどこにいるのだろう。
(あたりを見回す)
こちらの方にやってくる
幸せそうな人たちにきいてみよう。
(合唱隊の方に近づいて)
エウリディーチェはどこ?
精霊たちの合唱
エウリディーチェはすぐきます
オーボエやフルートが鳥のさえずりを、弦が小川のせせらぎや、優しく吹くそよ風を表しています。日本で言えば桃源郷でしょうか。その美しさに、うっとりとしてオルフェオも歌を合わせますが、だんだんと憂いに沈んでいきます。幸せな風景だからこそ、愛する人が側にいないのが堪えるのです。本当に、一度死んでしまった妻に会えるのか?不安は募るばかりです。
やがて、彼方から、踊りながら近づいてくる精霊の一団に、思い切って声をかけてみます。すると、精霊たちは声を揃えて、『エウリディーチェはすぐ来ますよ』と答えます。
第18曲 合唱
精霊たちの合唱
安らぎの国にようこそ
偉大な英雄、優しい夫
いつの世にもたぐいまれな者よ!
アモールがエウリディーチェを返してくれる。
すでに彼女は甦り
かつての美しさを取り戻している
精霊たちは全てを知っています。優しくオルフェオに、まもなく会えますよ、心配しないで、と歌いかけます。その音色は、在りし日の愛しい人の姿をありありと眼の前に蘇らせるように、懐かしさに満ちています。
第19曲 バレエ:アンダンテ
焦れるオルフェオを鎮めるかのように、精霊たちはさらに踊ります。焦っていては、オルフェオが掟を破ってしまいかねないことも、彼ら彼女らは知っているのです。強弱の対比も美しく、ピチカートで優しく彩られた天国的なバレエ音楽です。
第20曲 レチタティーヴォ
幸せな精霊たちよ
ああ、私のいらだちを許したまえ。
もし人を愛したことがあるなら
私を苦しめ
常に私につきまとう
燃えるような情熱が
あなたたちにもわかるだろう。
私の愛しいひとが見つからなければ
この穏やかな場所にいても
私は幸せにはなれない。
精霊たちの合唱
エウリディーチェがやってくる
さすがにオルフェオは待ち切れず、抑制しながらも、精霊たちに自分のいらだちを伝えます。精霊たちは、いよいよエウリディーチェが戻ってくることを告げます。
第21曲 合唱
精霊たちの合唱
おお、美しいひとよ
夫のもとに帰りなさい。
憐れみ深い天は
あなたが夫から離れることを望まない。
運命を嘆かず
これほどまでに誠実な夫と
もうひとつの楽園を作りなさい。
〔女の精霊たちの合唱団がエウリディーチェをオルフェオのそばへ連れてくる。オルフェオはエウリディーチェの方を見ないで、ひどく急いでいる様子で、彼女の手を取り、ただちに連れ去る。そのあと、男女の精霊たちの踊りとなる。合唱の歌が再び始まり、これはオルフェオとエウリディーチェがエリュシオンの園から完全に出てしまうまで続く。〕
精霊たちは、第18曲と同じ旋律で、エウリディーチェを連れてきて、ついに夫の元に返します。エウリディーチェはまだ一言も発しません。オルフェオは、抱きしめたいのを我慢して、エウリディーチェの手を引き、急いで現世へと急ぎます。エリュシオンの野は、いかに楽園でも、死者の世界なのです。
ふたりは、試練に満ちたこの世へ戻っていかなくてはならないのです。

動画は、引き続きチェスキー・クルムロフ城バロック劇場での映画版(日本語字幕)です。演奏は、ヴァーツラフ・ルクス指揮のコレギウム1704、コレギウム・ヴォカーレ1704(合唱)、オルフェオ役はベジュン・メータ(カウンターテノール)です。
動画プレイヤーは下の▶️です☟
独奏で演奏されることが多い「精霊の踊り」の、フルート、ヴァイオリン、それぞれの動画を挙げておきます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
