前回:
選挙権、そして社会の中で発言する資格、公に教育を受ける権利など、私達がかつて持ち得なかったものが今この手にはある。
それは例えばハーディングの小説『嘘の木』の舞台19世紀に、知的好奇心を胸に抱いた行動力ある聡明な少女が「わたしは悪い例になりたいの」と宣言したことや、それを支えた他の人々の延長線上に存在するもの。
ハーディング作品、『カッコーの歌』『影を呑んだ少女』に続いて3作目は『嘘の木』(児玉敦子訳)を読了。やはり素晴らしく好みだった。
同時にこの作品がぶっちぎりで重かった……と感じたのは、やはりフェイスの気持ちに寄り添えるからこそ。私は心であなたの手を握るだろう。
開幕から、物語は不思議な現実感を漂わせて進行する。
翼ある人類の奇妙な化石。疑惑。そして異常な速さで蔓を伸ばす植物の様子は、まさにひとつの些細な嘘が波及して取り返しのつかない事態になっていく様子を示唆し、なかでもペーパーシアターの描写は象徴的だった。紙の箱が劇場で、その側面から棒に貼り付けた紙人形を入れれば大きく横方向に動かせるけれど、箱の構造を無視して前後に操ることはできない……。
衣装替えもできない。
まるで「お前に与えられた役名の通りにのみ演じよ」と言われているみたいに。
こういうペーパーシアター、作中アイテムとして非常に好きで、Toy Theatreで検索して出てきた古いものを色々と見ている。欲しいよ……置く場所も一緒に。組み立てを行う前のシート状態も最高。
劇場や上演会場のことを俗に「箱」と言いますけど、文字通りにそういう領域で演目が行われる形式、それ自体がまず魅力的なんですよね。
閑話休題。
いま目の前に、そんな人はいるわけがないとさんざんいい聞かされてきた珍しい獣がいる。女性の自然科学者がいる。
「わたしたち、仲よくなれたかもしれないのに」
(創元推理文庫『嘘の木』(2022) フランシス・ハーディング 児玉敦子訳 p.426)
この台詞を読んだとき、私は本当に寂しくてつらくて仕方がなくなった。
けれど『影を呑んだ少女』を思い出す。あの物語でメイクピースの手を取ってくれた「例の彼女」がいることを思い、それが『嘘の木』の次に書かれた作品だという事実が、なんとも胸に迫るのだった。
私が読んだ順序は反対だったけれど、本国での刊行順に同作者の物語を追っていたら、まさに祈りの具現だと実感したはず……。もうひとつの道、未来。

そのあと『ガラスの顔』を手に取ることができた。
あるはずの文庫版を探すも近隣の書店のどこにも置いていない。不運が重なって遭遇できないだけだと思うけど、としばらく考えつつ、あまり行かない駅の中規模な本屋にふらっと入ったところで見つけた!
ハーディング作品、きっと『呪いを解く者』も遠くないうちに文庫化されるだろうし、来月下旬には『ささやきの島』日本語訳(他作品と同じく児玉敦子氏による)が単行本で出る。確実に良さが伝わっているような印象があり、こういう物語を探している人、出会うべき人のところに届いてほしい。
表紙に使われている牧野千穂さんの絵も非常に好み。その上で『ささやきの島』のエミリー・グラヴェット氏の装画も期待、早く見たい。
マキシム・チルダーシンの実験室では、片隅にある神秘的な印に覆われた白い樽のなかでスモッグリースがため息をつき、真ん中の塩で描いた魔法円の結界がアドルミューのぎしぎしいう桶を封印している。
(フランシス・ハーディング『ガラスの顔』(2024) 児玉敦子訳 創元推理文庫 p.131)
醸造過程でルーン文字の守護が必要になる、記憶を書き換えるワイン。しじゅう世話をしていなければ不平を訴える、幻を見せるチーズ……登場するたび全てにわかる、と深く頷きたくなるほど「知っている気がする」ものが目白押し。
そして私が最も心を動かされたのは、約500歳の〈大長官〉の存在。
親方がネヴァフェルに語る彼の姿からして、もう私が気にかけずにはいられない人物だと直感する。
あのかたの目、耳、鼻、舌に悪いところはない。ただ、それらの部分と魂が繋がっていないんだな。花を見てそれが青い色だとはわかるが、あのかたにとって青いことは何の意味もないのだ。
(中略)
あのかたの魂は色はあせ、情熱は星のようにひとつまたひとつと消えていく。
(フランシス・ハーディング『ガラスの顔』(2024) 児玉敦子訳 創元推理文庫 p.60)
そんな〈大長官〉の胸を覆う倦厭と退屈を、もしかしたら一息に吹き払うかもしれない風、再び命の火を燃やせる予感に涙を浮かべて終末に嗚咽した。
そう、この人は主人公ではないのだ。それでも……と。魂はそのまま小さなサルに姿を変えて、旅するネヴァフェルの傍らで賢い子供のように目を輝かせる道があったらよかった、と夢想を抱きしめた。
この気持ちの延長線上に知覚できるのは、そもそも私自身どれほど退屈を恐れているか、という事実でもある。退屈とは、目の前で何も面白いことが起こらない状態……ではない。「目の前で起こっていることを何も面白いと思えない」状態、その心の方だ。
地上にあった都市が戦争や災害で崩壊し、廃墟となり《地下都市(カヴェルナ)》が形成されて500年。落胆、諦念。命を狙われ続け、信頼できる者もなく対処法を考えるだけの月日は魂を麻痺させる。
そこから離れた場所にいる私達も、この感情だけならきちんと知っている。世界に疲れて、おそらく防衛本能で、心が感じることをやめようとする瞬間を。喜んだり悲しんだりすることを。
だから〈大長官〉に眼差しが向けられ、同時に〈地図作り(カートグラファー)〉たちへの強烈な憧れが募るのです。
地下都市カヴェルナ、それ自体の謎にもはや「恋」をしている人達……また自分こそは彼ら以上の愛を抱いていると語るクレプトマンサー……。
いまだ解き明かされない神秘に心奪われ、引き換えに常人とは会話も通じなくなってしまう境地に爪先を浸す感覚は劇薬に似る。戻ってこられないかもしれない、その代わり誰も知らない秘密に触れられるかもしれない、知りたい知りたい、と強く願うことが退屈を滅し、むしろヒトを繋ぎ止めている側面は面白い。
戻ってこられなくなっちゃいたい、と思ってしまうのは止められない。なぜなら冒険したい、未知の世界へ、そういう願望こそが人間を生かしている。

『ガラスの顔』に登場する忘れられない事物の中に、淡い金色のゼリーに閉じ込められた、宝石の色の鳥があった。
彼らがいっせいに飛び立つ瞬間、その前後の描写は確かに幻想・夢想といって差し支えないけれど、かつて現実の中世において本当に「生きた小鳥が出てきて羽ばたく料理」が存在していた、とは信じがたく……。でも、あったみたいなんです。
おはなしの世界にではなくて実際にこの地上にも。マザーグースに登場する〈二十四羽の黒鶫(black bird)のパイ〉のようなものが。焼いたパイ生地の内側に黒い小鳥が入っていて、ナイフを入れると飛び出し、祝宴の広間を飛び回る趣向になっていた。
作者もそれに着想を得たのだろうと思う。
住民の社会的「階層」が固定されている部分でも、作中の地下都市カヴェルナと、上記の料理が提供されていた中世には共通点がある。
〈大長官の晩餐会〉で次々と卓上にもたらされたのは、すばらしい料理と、危険なほどに珍しい真の料理。それはこちらの世界に存在した「奇想天外なごちそう」……イリュージョン・フードの、いわば変奏なのだと深く頷いた。
金の林檎に見立てたミートボール。マジパンの葉がついている。はりねずみに見立てたペイストリー。イナゴマメの粉から作った本体に、これまた食べられる針が刺さっている肉の彫刻。加えて精巧なサトゥルティ(装飾菓子)がファンファーレと共に給仕される、途方もない現実の光景。
みごとに料理された肉、魚、鳥の肉、野菜、果物、お菓子などが味や匂いのほかに、目までも楽しませてくれるのです。やまうずら、雉、雄の孔雀のような美しい羽根をした鳥類がローストされ、そしてまるで生きてでもいるように、もう一度羽根でおおわれています。爪や口ばしは金色に塗られて、輝いています。"イリュージョン・フード』"では、思いがけない驚きが楽しさにつながるのです。「あれかしら?」と思うと、じつは別のものなのです。
(マドレーヌ・P・コズマン『ヨーロッパの祝祭と年中行事 (新装版)』(2015) 加藤恭子、山田敏子訳 原書房 p.14)