あいにくの雨模様 。。。

すまきとすまりんは 元寇終焉の地 鷹島(たかしま)を訪れました
鷹島は 九州の北西部に位置しています

入り組んだリアス海岸 伊万里湾に浮かぶ島です


鷹島へは車で直接行くことができるようになりました🚗
鷹島は長崎県松浦市に所属しますが 橋は佐賀県唐津市との間にかかってます

現在 日本で12番目に長い斜張橋なのだそうです!

まず最初に訪れたのは 島の中央にある「松浦市立埋蔵文化財センター」

※「埋蔵文化財センター」を見学するには入場料が必要です
まず 受付のある隣の「ガイダンス施設」へ...

管軍総把印のモニュメントが目を引きます!
開館時間:9:00~17:00 (月曜休)
入場料:一般・大学生 310 円
小中高校生 150 円
※休館日の詳細等につきましては ホームページで検索なさって下さい
こちらには鷹島海底遺跡から引き揚げられた多数の遺物が展示されています


鷹島沿岸の海底からは 元寇当時の元軍の軍船や遺物が多数発見されたため 日本で初めての海底遺跡「鷹島神崎遺跡」として国史跡に指定されています✨

館内撮影はOKでした(*^^*)

まずは VRでお勉強...

元の軍勢は「文永の役 1274年」「弘安の役 1281年」と2度にわたって日本に侵攻しましたが その両方で この鷹島は戦場となりました
文永の役では 元の大軍の前になすすべもなく蹂躙され 全島で殺戮が繰り広げられたと伝わります(>_<)

蒙古襲来絵詞にも描かれた 「てつはう」

蒙古襲来絵詞の主人公 竹崎季長(たけざきすえなが)も 文永の役では「てつはう」に苦しめられたようです💦
元寇に興味のあるかたは こちらもご覧下さいね(^_-)-☆
「てつはう」は 今で言う手榴弾のような炸裂弾だったと考えられています

内部には鋭利な破片が詰められ 殺傷能力が高められていました


ここでちょっと... 美味しい「てつはう」のご紹介を(^_-)-☆

対岸にある松浦の市街地で「てつはう」にちなんだ和菓子が売られていました


てつはう最中✨⤵

日持ちするので 帰宅後にいただきました

ちゃんと歴史もお勉強できるように説明書きが添えられていました


左の白いのが パチパチふりかけ✨

※食べ方は袋の裏に書いてありました(^_-)-☆

"パチパチふりかけ"を口に含んでから モナカを食べると...
口の中ではじけて楽しかったです(*^^*)
サーティワンのポッピングシャワーと同様...
モナカに関係なく 口の中の水分で 勝手にはじけます 笑
途中からは ふりかけを口に入れたまま 少量の水を含んで楽しみました(笑)
気になる「てつはう」の中身は...

こだわりの白餡に芋や栗が入っていて とろけるようでした✨
埋蔵文化財センターのお話に戻ります💨
第一回目の侵攻に失敗した元は およそ15万人の兵を編成し 軍船4400艘という 世界史上例をみない恐るべき規模の艦隊で再び来襲しました!
それが「弘安の役」です
元軍は碇(いかり)の代わりに石臼を使うなど 生活用品を満載し 日本を征服して居住する気だったと考えられています

石臼と碇石

この模型のように 碇石は"重り"として碇に装着して使われました⤵

蒙古剣

石弾

てつはうに似ていますね

上図にも説明がある「回回砲」という投石機は イスラムの技師が製作したという元の最新兵器で 難攻不落といわれた南宋の都市 襄陽を陥落させる決定打となるものでした
幸い 本土上陸を阻止できたために持ち込まれませんでしたが 鎌倉期の日本の砦に使用されていれば ひとたまりもなかったことでしょう💦
こちらは元軍の兜

鎧は いわゆる チェーンメイル(鎖帷子)のようです

1281年の「弘安の役 」の経過をおさらいしてみます(^_-)-☆

すまきの手作りグッズで身を固めたすまにゃが
※蒙古襲来絵詞の主人公 竹崎季長(たけざきすえなが)を演じています
5月3日
朝鮮半島から先発した東路軍5万人900艘は博多湾上陸を試みましたが 湾岸に築かれた20kmにおよぶ防塁に阻まれて上陸を断念...
壱岐まで撤退し 遅れている江南軍10万人3500艘の来着を待ちました
「元寇防塁を歩く (後編)」に書いています
一方の江南軍は総司令官の病気交代などもあって出発が遅れました
その間 壱岐で待つ東路軍は疫病が蔓延して3000人の死者を出したと言われます
さらに 鎮西奉行の少弐経資を総大将とする数万人の日本軍が瀬戸浦に逆上陸し 東路軍に攻撃をかけました✨

6月下旬 平戸島と鷹島にようやく江南軍が到着し 東路軍は壱岐を出航...
7月中旬から下旬に ここ「鷹島」に両軍が集結しました

あいにくの雨模様で見通しは良くないですが…

この湾内に4000艘をこえる軍船が集結していたとは 想像を絶します👀💧

7月27日
元の大軍に対して 日本軍は果敢にも海戦を仕掛け 戦闘は日中から夜明けに掛けて続いたとされています
このため元軍は動けず 守備に徹せざるを得ませんでした
鷹島に土塁を築いて日本軍の来襲に備えたほか 軍船を縄で連結して砦と成しました

そして 運命の7月30日✨
夜半 襲来した台風により 山のように逆巻く波が元の軍船を襲ったのです
船を密集させていたことも災いし 多くの軍船同士が衝突して砕けました
『元兵は叫びながら溺死する者が無数であった』といいます
その被害は凄まじく『4000隻の軍船のうち残存したのはわずか200隻であった』と記す文献もあります(これはやや誇張が過ぎると考えられています)
海岸で発見された「管軍総把印」のレプリカが展示されていました

元の将校の位は 上から万戸・千戸・総把・百戸となっていて「総把」は下士官レベルの将校を意味するそうです☝

体験コーナーもありました⤵

青銅製なので ずっしり重いです!
700年以上も前に海底に沈んだ木造船が引き揚げられていました👀


こんな所に トリックアートがありました!

やる気満々のすまりんと やる気のないすまき(笑)


すまきは この時もやる気なしでした(笑)⤵
「ガイダンス施設」を出て「埋蔵文化財センター」に移動します

こちらで 鷹島周辺の海から引き揚げられた元寇遺物の保存現場を見学できます


またまたトリックアート!

刺される0.5秒前(笑)

こちらが 保存作業の現場です

長期間海に沈んでいた遺物を引き揚げたまま放置してしまうと腐食や変形の原因となるそうで 脱塩などの保存処理を施したりして遺物の保存に努めておられるそうです

碇石(いかりいし)が展示されていました


碇も引き揚げられています

床に「大型碇」の実物大の図が描かれていました


すまりんと比較すると どれだけ大きいか分かりますね👀

トリックアートが写っていますね ↑
今回 最後のお遊びです(^_-)-☆


ようやく楽しくなってきた すまき✨


・・・・・・ お話は まだ半ば...(笑)


この海底に 今も多くの軍船と多数の元の兵士たちが眠っています

元軍の高官たちは 残った船で逃げ帰ってしまい 島には帰る手段を失った多数の兵士たちが残されました
閏7月7日(この年は7月が閏月で2回ありました)
島に残る数万の元軍に対し 日本軍による鷹島掃討戦が開始されました
島の南部に 「中川激戦地の碑」がありました

船を失った兵たちは 死に物狂いで抵抗したものと思われ 日本側にも犠牲が出ました

近くには「首除き(くびのき)」という恐ろしい地名が残されています

「刀の元(とうのもと)」という地名もありました

元軍の捕虜を斬首した場所とも伝えられています



「元寇防塁を歩く (前編)」でもご紹介しましたが...
こちらは「開田の七人塚」

1274年 10月16~17日...
元軍は鷹島に上陸し全島で殺戮を繰り広げました(>_<)
山林に8人家族が隠れていましたが 鶏が鳴いたため見つかってしまい 7人が殺され 灰溜めにひそんでいた老婆だけが生き残ったという伝説が残されています
以来 この集落では鶏を飼わないそうです

文永の役では 鷹島だけでなく「対馬」や「壱岐」も全島全滅に近い被害を受けました
対馬守護代 宗助国は 対馬の小茂田浜に襲来した3万にも及ぶ元軍をたった80余騎で迎え撃ちました!
本土に危急を知らせるため小太郎・兵衛次郎の二人を博多へ逃し 宗助国以下 全員が敵中に突撃して散ったと言われます(>_<)


主君の仇を討つべく 小太郎と兵衛次郎は 次の「弘安の役」で参陣しましたが ここ鷹島の激戦で命を落とすことになります(>_<)
「我が屍を埋むるに対馬を望むべき丘陵においてせよ…」
小太郎の遺言のとおり 小太郎の墓は鷹島の高台に建てられました

参道下に 駐車場が完備されています



「対馬小太郎の墓」


樹が茂って見えにくいですが 雲のむこうにはきっと対馬があるに違いありません


鷹島大橋からほど近いメインストリート沿いに兵衛次郎の墓もありました




文永の役で総大将をつとめた少弐景資は 弘安の役にも参戦しています
島の北部にある「龍面庵」は 少弐景資が本陣を置いた跡であると伝えられています


脇には 少弐景資の石像がありました


景資は 今は静かな阿翁(あおう)の港を見下ろしていました

彼が見つめるのは はるか先の中国大陸です...
龍面庵の隣には「石工展示館」がありました



阿翁は良質の玄武岩の産地で "阿翁石"が有名だそう...
福岡県にある筥崎宮の 一の鳥居にも使われているそうですよ⤵

鷹島大橋のたもとにある「道の駅 鷹ら島」

鷹島の玄関口です(^_-)-☆

さっきからトイレを我慢していたらしく 走るすまき💨

切羽詰まっていたようです(笑)
ところで
鷹島が属する「松浦市」は "アジフライの聖地✨"として有名です
なので 昼ごはんは当然 アジフライにしようと思っていました
こちらは道の駅に併設されている食堂

平日ですが GW期間だからか混雑していました💧
結局 ここでの昼食は断念^^;
食堂の脇の 顔出しパネル

「勝海舟と龍馬」のツーショット✨
アジフライのモニュメントもありました!


鷹島をあとにして...
伊万里湾をぐるっとまわり 対岸の松浦中心地に移動します🚗

実は 防塁は博多湾だけでなくこの伊万里湾にも築かれていました
星鹿半島先端の 逃の浦という所に石塁遺構があるとのこと...

海辺まで車幅ぎりぎりの細い道を下らないといけません^^;

もちろん歩いても良いのですけど ちょっと距離があるので『えいやーっ』とすまきが車で乗りこみました^^;
もう後戻りはできません(笑)
なんとか下り切り ここに車をとめました

防塁は あちら(左の山の端)にあるようです

でも 右の防波堤は途切れていて 向こうまで渡れません💧

⇧このコンクリートの部分は 果たして"道"でしょうか?
左からは草が迫っていて すぐ右は海...
しかも ものすごい風で😱
写真で見るより かなり怖い状況でした💧
できるだけ 左に寄りながら...

半分は風で押されているのですけど(笑)
12秒の動画です (音量にご注意!)

上陸した元軍がここから逃げて行ったので「逃(にげ)の浦」とよばれるそうです
海岸沿いに 石垣が積まれていました

すまきが吹き飛ばされそうになりながら 動画を撮っていました

すまき目線の16秒の動画 (音量にご注意!)
元軍を襲った台風の風は こんなどころではなかったでしょうけどね^^;
もはや お面不要のすまりん(笑)

急いで退散です💨💨

ちょっと怖さが伝わりますか??

このあと 無事 車まで戻りました
続きの道から一周して戻れそうですが この先どうなっているか不安なので...

やっぱり もと来た道を戻りました^^;


松浦沿岸には 海の藻屑となった数万の元軍の死体が打ち上げられたと言われます

住民たちが築いた「千人塚」が 逃の浦のすぐ近くに残されていました


元軍は『10万の衆 還ることの得る者 三人のみ』と「元史」に記された 史上稀にみる大惨敗を喫し その海軍力のほとんどを喪いました
これがその後 倭寇が跳梁する遠因となったといわれています
クビライ・ハン(※)はその後何度も第三次日本遠征を企図しましたが 結局かないませんでした
(※)すまりんの時代はフビライ・ハンと習いましたが モンゴル語の発音では クビライが正式な呼び方です
一方の日本でも...
死力を尽くして戦った御家人たちに十分な恩賞が出せず やがては鎌倉幕府の滅亡へとつながることになったといわれます💧
竹崎季長も恩賞をもらえず 大切な馬を売って路銀をかせぎ 遠路「鎌倉」まで直訴しに行ったと「蒙古襲来絵詞」に記されています
かまくらに向かうすまにゃが(笑)

誰もいないにゃ...💧

この小さな烏帽子も すまきの手作りです(^_-)-☆
今度こそ お昼ごはん (アジフライ) を食べるべく...
「道の駅 松浦 海のふるさと館」に やってきました

アジフライのモニュメント!


おいしそうにゃ...
ところが!
のぼりは 立っていたのに...

残念ながらGW期間はお休みということ^^;

商売気がないのかな...と思ったけど
感染症対策や 店員さんの数の問題なのかもしれませんね...
仕方ないので もうあきらめますが💦
別日に 松浦を訪れた時に食べたアジフライをご紹介しますね(^_-)-☆
和食レストラン 庄屋(松浦市調川町)

※メニューは他にもいろいろありました

注文したのは もちろん ”松浦アジフライ定食”⤵

どーんと 大きなアジフライが二尾!

衣はサクサクで 中は ふわふわです(*^^*)

モニュメントより 本物がいいにゃ💗

すまにゃがは もうちいさな須磨に戻ったようです(笑)
次回は