関ヶ原の戦いで敵中突破し 薩摩をめざした「島津隊」
前回は 島津義弘の影武者として命を落とした「島津豊久たちの退き口」のお話をさせていただきました
今回は主将 島津義弘の足跡を追ってみます(^_-)-☆

島津義弘の本隊は 牧田宿で豊久たちと別れ伊勢東街道をまっすぐに進みました

ところが
伊勢街道へ退却を始めていた土佐の長宗我部盛親隊2100人と近江水口の長束正家隊1100人が道を塞いでいたのです

※Wikipediaより改変
両隊とも味方のはずですが 西軍は小早川秀秋・吉川広家の裏切りもありました💦
敵か味方か 義弘は家臣の伊勢貞成を撤退挨拶役として派遣し様子をうかがわせました
使者に立った伊勢は "武者"を連れて戻ってきました
「長束正家」の家臣でした...
報告によれば長束隊・長宗我部隊ともに自軍の退却で精一杯で 島津に害意はないということでした
そればかりか長束正家は 島津家が地理不案内とみて道案内役の家臣を派遣したうえ 道を譲って先に撤退させてくれたそうです✨
彼は豊臣政権五奉行のひとりで 武人というよりは石田三成と同じく有能な官僚だったようで 小田原征伐の際には兵糧奉行を担当し 20万人以上の兵站を維持するために20万石もの米を滞りなく送り届ける手腕を発揮しています✨
細かいところによく気が付くいい人だったようです
残念ながら 最期は切腹させられたのですが...(>_<)
そのとき介錯を担当した家臣をも気遣い 『自分の死後にその家臣が殉死しようとしたら必ず止めてほしい』と相手方に頼んだのだそうです!
本当に優しい殿様ですね...
さて
案内を得た義弘たちは 養老山地の東麓に沿う伊勢東街道を南へ向かいました

駒野坂というところで敵軍を避けて養老山地に入り 夜を明かして山を越え伊勢西街道へ出たとされます
駒野付近から養老山地を越えるルートは 現在「二之瀬越」と呼ばれる峠道ではないかと考えられています

「今昔マップ on the web」によれば 車道が整備されて現在は一部ルートが変わっているようです
今回は車ですが すまりんたちも養老山地越えにチャレンジしてみました🚗

舗装はされていますが ちょっと古びたところもある道です

二之瀬越はかなり厳しい道で 特に峠の東側はヘアピンカーブの急坂でした

交易路として わざわざ養老山地の真ん中を越えて伊勢西街道と伊勢東街道をショートカットする重要性は薄いように思いますので 当時はきっと猟師が使う杣道(そまみち)のような道だったのではないでしょうか...

馬を連れて越えるのは大変なように思えました💦
山頂には 濃尾平野を見下ろせる公園が整備されています


あいにくの黄砂霞みで あまり展望はありませんでした💦
峠を越えると 御弁当谷とよばれる緩やかな谷をまっすぐ下るので ちょっと楽になりますが…

視界がひらけると 眼前に屏風のように立ちはだかる鈴鹿山脈に呆然とします

近江へ行くには あの山を越えなければなりません!
すまりんたちは ちょっと寄り道(^_-)-☆
これは 展望台のすぐ近くの梅林の写真です

今年は開花が遅かったので 梅まつりの期間が過ぎてから満開になっていました^^;

多くの観光客が訪れていましたが 祭りの期間を過ぎているので園内への立ち入りが禁止されていて 外から眺めるだけです💧
義弘たちがここから鈴鹿山脈をどのルートで越えたかは 諸説わかれています
ばらばらになった島津家の家臣たちは複数のルートをたどったとみられ 情報が錯綜しているようです
鈴鹿越えのルートは 古くからある「加太越の大和街道」「伊賀街道」「鈴鹿峠」に加え「千草街道」や「八風街道」などがひらかれていました

通説では 前回のブログで書いたように「伊勢西街道を一旦北上して 時山という村で別動隊と合流し 五僧峠を越えて近江に抜けた」とされていますが...
「関から鈴鹿峠を越えて水口に至った」あるいは「長野峠を越えて伊賀街道を抜け 伊賀上野を通った」という話もあります
先ほどの「二之瀬越」を経験してみて🚗...
『なぜ義弘がわざわざ養老山地の難所を横断したのか?』もう一度考えてみました
もし南の「鈴鹿峠」や「大和街道」「伊賀街道」を目指すのであれば 山越えせずに駒野からあと10kmばかりまっすぐ進み 多度大社を抜け 鈴鹿山地の南端を迂回するルートを行くほうがはるかに楽に見えます(下図の赤いライン)

多度大社は当時 長島一向一揆に関連して信長の焼き討ちにあい荒廃していましたが 道は通れたはずです...
「敵がいたから駒野より南に進めなかった」ということだそうですが その敵とはいったい誰だったのでしょう?
関ヶ原の戦いの約1か月前の前哨戦において「西軍」についていた高須城の高木氏は「東軍」についた松ノ木城主 徳永氏に攻められ城を奪われます
徳永氏は高須城に駐屯し さらに高木一族の城である駒野城と津屋城を攻めました

ネットの情報をあつめてみると
『駒野城・津屋城とも高須城と同日に落城した』というものと 『駒野城は包囲されながらも籠城し 関ケ原本戦の翌日に降参した』というものの二つの話がありました
すまりんたちは専門家ではないので 一次資料などを調べるすべはありませんが もし駒野城が包囲されている状況ならば 確かに駒野より先に進むのは難しいかもしれません(それどころか津屋城を過ぎて二之瀬越の分岐まで近づくのも危険な気がします💦)
一方で駒野城・津屋城が落城後放棄され 徳永氏が揖斐川の向こうの高須城に引っ込んでいたとすれば...
夜陰に乗じて伊勢東街道を南に抜けるのも可能かもしれませんよね?
事実 島津義弘隊に先をゆずってあとから伊勢東街道を退却してきたと思われる 長束正家・長宗我部盛親は 最終的にどちらも(鈴鹿峠や伊賀街道を越えて)本国に無事帰国していますし 両隊が二之瀬越を越えたという話も 駒野で争いがあったという話もありません
もし義弘が 南に進むことが可能なのに「二之瀬越」を選んだとすれば それは牧野で別れた豊久の隊と合流するためだったのではないでしょうか!
兵たちと囲炉裏を囲んで食事を共にしたという人情あふれる義弘は 自らの囮となった豊久たちを捨て置けなかったのでは...(>_<)
と すまりんたちは考えます
義弘は「時山」という集落において 牧野で別れた士卒たちと合流し 途中出会った織田秀信の家臣 小林新六郎の案内で五僧峠を越えたといわれます

豊久が生きていたら良かったのに...
鈴鹿山脈がやや途切れる 中央の谷あいに「時山」があります⤵

谷の奥深くにひっそりとたたずむ集落には「島津隊ゆかりの道」の案内がありました

谷をさらにさかのぼります🚗

ここは積雪量の世界記録をもつ"伊吹"にほど近い豪雪地帯
3月末まで通行止めになっていて 「島津越え」と呼ばれる五僧峠までは進むことができませんでした^^;

正確なルートは不明ですが 鈴鹿山脈を越えた義弘一行は 襲い来る落ち武者狩りと戦いつつ大坂をめざし 摂津国の「住吉」に入りました
住吉では田邊屋道与という商人の協力により 堺からの船を手配してもらったと伝わります...
田邊屋はその謝礼として 島津家秘伝の陣中薬の処方を受け取り これを売り出しました
これがのちの「田辺製薬」のはじまりといわれています✨
田辺製薬は2007年 三菱ウェルファーマと合併し「田辺三菱製薬」となっていて その本社は大阪市中央区の道修町(どしょうまち)にあります

道修町は江戸時代から薬種問屋が集積する「薬の町」として知られ なかでも武田・田辺・塩野義は「道修町御三家」とよばれる老舗です✨

本社の2階に史料館があるということで 行ってみました

※入館無料ですが 事前にネットでの予約が必要です


田邊屋の初代は 1678年に土佐堀で開業した田邊屋五兵衛という人です

田邊屋の売り出した「たなべや薬」は 17種の生薬を配合し 袋に入れてお湯で煮出す振り出し薬でした

打身や産前産後の貧血に効能があるとされ禁裏御用達の栄を賜ったそうです

初代 五兵衛の活躍の礎には 父 田邊屋又左衛門の存在がありました

又左衛門は 徳川家康よりルソン交易の朱印状を得ていた有力商人でした!

そしておそらく又左衛門の先代が 義弘を助けた田邊屋道与だったのではないでしょうか...
さて 島津義弘の帰還のお話に戻ります
大坂城には 妻の宰相殿などが人質にとられていましたが 無事奪還することができました(*^^*)
船を手配してもらい 堺を出航した義弘は 西宮沖で 同じく西軍の立花宗茂の船団と遭遇しました
秀吉に「東の本多忠勝✨ 西の立花宗茂✨」と称賛された猛将の宗茂は京極高次の守る大津城を落としましたが 関ケ原の敗戦を知り九州の自領へと戻るところでした...
宗茂は実父を島津氏に攻め殺された因縁がありましたが 過去は問わず 島津家と立花家の船団はともに瀬戸内海を西へ向かいます⛵⛵
しかし その後も困難が続きます💦
国東半島沖で 西軍に属した九州大名の城を攻めていた黒田家の軍船に島津家の船が遭遇し海戦となったのです⚔
ふたたび多数の戦死者を出しながらも 義弘と奥方たちはどうにか無事に日向にたどり着くことができました
義弘たちは日向岬の北にある細島の港に入ったと伝わります

日向岬から見た 細島港
ここからは陸路佐土原を経て 薩摩へと帰還したと伝わります
義久の囮になって命を落とした「豊久」は 前回の記事にも書いた通り義弘の"甥"でした
ここで 豊久についてちょっと補足しておきますね(^_-)-☆
戦国時代 島津氏が九州を席捲するきっかけとなった「耳川の戦い」ののち 日向国の押さえとして島津四兄弟の末っ子である家久が佐土原城に入りました

※平成の大合併で宮崎市に編入された佐土原の町は宮崎市北部にあります
家久は 兄の義弘が嫉妬したほどの戦上手でしたが 秀吉の九州征伐と同時期に急死してしまいます💦
その後を継いで佐土原を領していたのが 家久の子「豊久」です
豊久とともに帰還できなかった義弘は 佐土原で待つ豊久の近しい者たちに合わせる顔がなかったものと思います(>_<)
豊久に子はいなかったため 佐土原城にはのちに一族(いとこ叔父)の島津以久が入り 江戸期を通じて佐土原藩3万石として存続しました
佐土原城には 江戸時代に建てられた二の丸御殿が復元されています



宮崎の日差しを浴びて すっかり色褪せてます^^;

家久・豊久の頃の佐土原城は 御殿の背後にある山全体に広がる 山城でした

すまりんたちがここを訪れた時は春でしたが 南国の日差しはじりじりと暑く💦山城に登るのは断念しました^^;

1625年に山上の建物を棄却して 山の下に城が移されたそうです


本家が鹿児島城を鶴丸城と称したのに習って 佐土原城は鶴松城とよばれました
復元された二の丸御殿(鶴松館)は宮崎市佐土原歴史史料館となっています

※開館日は基本 土・日・祝日だけなので注意!

内部の撮影は禁止ですが お庭の撮影はOK(^_-)-☆


鎧・甲冑体験ができる上段の間も撮影OKでした(^_-)-☆

ちょっと大きいにゃー(笑)

控えよ!殿の御前であるぞ!!

殿はちょっと緊張気味...

やっぱり肩ひじ張るのは疲れるにゃー

さて 御殿から車で数分🚗
山城の麓をまわりこんだところに 家久と豊久の墓があります

民家の間の細い路地を入り…

藪の中の坂道を進んで行くと...

天昌寺跡がありました⤵


ちょっと絵がこわい^^;

左から 家久・豊久・家久室・家久母

横には 関ケ原で亡くなった家臣たちの墓が並んでいました


義弘は豊久が討ち死にしたことが信じられなかったらしく 家臣に三虚空蔵参りと称させて豊久の安否を探らせました
家臣は3年もの間 諸国を遍歴したと伝えられています
戦後 家康は島津家当主の義久に上洛を命じましたが 2年にもおよぶ交渉で幕府は譲歩を重ねることになり 結局義久は上洛せぬまま島津家は本領を安堵されることとなりました
本気で薩摩と事を構えたら 幕府も無傷では済まないと考えられたのでしょう...
島津家では一応「遠島」と称して 義弘を桜島の北岸に蟄居させていました

当時は陸とつながらず 錦江湾に浮かぶ島だった桜島 (👆飛行機より撮影)
この頃の島津氏の居城は霧島市隼人町にあった富隈城だったので 蟄居した場所は実は錦江湾をはさんで目の前の場所でした(手漕ぎ舟をとばせば3時間足らずの距離です)

蟄居していた屋敷の門構えが 今も桜島に残されています



家康が出した処分は
「義弘の行動は個人行動で 当主の義久が承認していないから島津家にお咎めなし」
そして 義弘の処遇も
「わし(家康)と義久は仲がいいので 義弘の咎めは無しとする」
とぐだぐだなものだったようで のちに義弘が亡くなった時には幕府から香典まで贈られています👀
名目上は「西軍の総大将」であったとはいえ 合戦では動かず 一族の吉川広家を通じて家康と密通💛していたはずの毛利家は なんと120万石を30万石にまで減封されてしまいました
また 後方で戦に参加しなかった長宗我部盛親も 土佐22万石を召し上げられるなど 家康に刃向かわなかった武将たちも厳しい処分を受けるなか... 最前線で家康と敵対した島津家がなんのお咎めも受けなかったのは (徳川家が幕府の基盤をかためるうえで講和を急いでいたこと・薩摩が僻地だから などという理由もあるとは思いますが) やはり家康の目の前で恐るべき武勇を発揮してみせた✨ことが影響したのではないでしょうか...
宮崎県えびの市に 島津義弘が関ヶ原の折に詠んだとよばれる句の石碑があります

いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは
状況が流動的な時には 急ぎ焦って行動するのではなく 慎重に状況を見極めて判断しなさい…
というような意味でしょうか
義弘が関ケ原で得た教訓を 自戒もこめて皆に残した言葉のように思えます
「島津の退き口」の勇名は 400年を経た今でも鹿児島の人々の誇り✨となっていて 関ヶ原の戦いのあった旧暦9月(新暦10月)に 当時をしのんで鹿児島市の照国神社から 伊集院町の徳重神社までの20kmを踏破する「妙円寺詣り」が行われ 多くの人が参加されています

すまりんたちは 歩きませんよ(笑)
以上 長くなりましたが 関ヶ原の記事を終わらせていただきます
なお 関ケ原での島津義弘本隊の足跡については ブロ友のかっくんさん (id:rekikakkun)も 歴史作家 桐野作人氏の著作をもとに詳細な記事にされています
かっくんさんは各地の山城を巡られその歴史についても詳しく書いておられます✨
次回は「休暇村 指宿」のお話です♨