天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」

濃霧の中での遭遇から 先陣争い・激戦・裏切り… とドラマティックな展開が続きますが そのフィナーレとして名高いのはなんといっても「島津の退き口」でしょう

もう何度目かの てくてくシリーズ🐾🐾
今回は
『退路を敵中突破に求め ひたすら前に向かって駆けた島津義弘以下一千余名の島津隊が辿った道』を歩いてみたいと思います(^_-)-☆
「島津の退き口」を含め関ヶ原の合戦ついては ブロ友のかっくんさん (id:rekikakkun)がすでに詳細なブログを書かれています!
超大作✨の中からこちらに一部抜粋させていただきました
かっくんさんは各地の山城を巡られ その歴史についても詳しく書いておられます!
※おことわり
かっくんさんと同じタイトルでの記事を書くにあたり 視点が重なり過ぎないようあえてかっくんさんの記事をおさらいせずに関ヶ原を歩き 自分の記事を書き上げてから 再読させていただきました
なので かっくんさんが記事の中で教えて下さっていた情報が頭から抜け落ちていたらしく 道に迷ったりしました^^;
さらっとでもおさらいしておけばよかったです💧💧
では
すまりんたちも ここで少し 戦いの経過をまとめてみますね(^_-)-☆
1600年(慶長5年)9月15日...
徳川家康を総大将とする「東軍」と 石田三成率いる(※総大将の毛利輝元は大坂城にいました)「西軍」が この関ヶ原で向かい合いました


佐和山城(滋賀)の石田三成像 と 駿府城(静岡)の徳川家康像
未明に布陣を終えた両軍の規模は「東軍」7万4千余「西軍」8万2千余 といわれます

「東軍」が赤 「西軍」が青と黄で示されています
朝からの濃霧で互いの状況を視認することはできなかったようですが
もし晴れていたら...
石田三成の陣から見下ろす「関ヶ原」はこんな状況だったと思われます

正面の南宮山に布陣する毛利秀元(輝元の養子)をはじめとする西軍が機能していれば東軍を挟み撃ちにする状況に見えますが...
実際には 毛利家の重鎮 吉川広家が 西軍不利とみて徳川家康と内通し 軍を動かさず進路をふさいだので 黄色で記した西軍諸隊は戦いに参加できませんでした💦
総大将の軍が戦わなかったら勝てるわけないですよね…
少し右を向くと「西軍」の諸隊がずらりと布陣しています✨

ここでも黄色で記してある 西軍だったはずの小早川秀秋が東軍に寝返り さらに松尾山のふもとに布陣していた脇坂・小川などの諸将も寝返って 同じ西軍の大谷・宇喜多隊の側面に襲いかかり 戦いの趨勢を決することになりました
さて 今回の主役「島津家」の事情について整理してみます
こちらは 島津四兄弟の長男 島津義久 (薩摩川内市の泰平寺公園にて撮影)

秀吉の九州征伐で降伏し 剃髪出家した義久は秀吉から薩摩一国を安堵されました
ところが秀吉は 次男の義弘にも大隅一国を与えました!

👆島津義弘像 ※尚古集成館(鹿児島)にて撮影
さらに 義弘にだけ"豊臣"の姓を許すなど 秀吉は事実上 弟の義弘を島津家当主として扱いました
しかし 島津領内の実権は そのまま兄の義久が握っており「両殿体制」という状態が続いていました...
義久にとっては 豊臣が良いイメージであるわけがないですよね!
義弘にとっては まぁ良いかふつうか… といった感じでしょうか...?
相手の家の家臣に直接手を突っ込んで騒動の種をつくる^^; 秀吉流のいつもの策です!
関ヶ原の戦いの直前...
上洛して京都にいた義弘の手勢はわずか1000人ばかりでした
事態が緊迫するなか 義弘は西軍に与するため薩摩に兵を送るように要請しました
しかし 当時薩摩で内乱が起こっていたこともあり 兄の義久は援軍を送らなかったのです...
そのため義弘は たまたま参勤上洛した甥の豊久の手勢と 危急を聞いて各自独断で薩摩から馳せ参じた家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)をはじめとする有志たちを加えた1500あまりの兵だけで西軍に加わることになりました💦
朝鮮出兵では 7千の兵で3万の明・朝鮮連合軍を壊滅させ「鬼石蔓子(グイシーマンズ)」として恐れられたという義弘の勇猛ぶり✨は諸将の知るところでしたが...
このたびは兵数の少なさゆえに石田三成ら西軍首脳陣から軽んじられて 提案した作戦も却下されてしまいます💧
さらに関ヶ原の前哨戦では 敵前に島津隊だけ置き去りにされるということもありました😱
こうした経緯から 関ヶ原の戦いが始まっても義弘は積極的に動かず 自陣を固めて守備に徹することにしたのです
さて「西軍」が総崩れとなりはじめた午後…
島津隊も 周囲を雲霞のごとく敵に囲まれる状況になっていました💦
多勢に無勢...
もはやこれまでと義弘は討死を覚悟しましたが 甥の豊久らに制止され「撤退戦」を決意したのです✨
しかも 撤退の方向は 前方の敵に向かって👀💧
~空前絶後の敵中突破による撤退の開始です~
このあたりが 関ヶ原の島津隊の陣跡と伝わるところです

丸十の旗印がはためいていました
「島津義弘陣跡」と記されていますが…


神明神社の社叢にあるこの場所には 豊久が布陣していたといわれます

義弘と家老の長寿院盛淳は 少し後方(西側)に布陣していたそうです

「薩摩池」という池が残っていました

陣の前に設けた堀の跡という話もあるようです

まんなかの旗にかぶってみえる小高い森⤵が 豊久の陣です

ふたたび豊久の陣まで前進しましょう...🐾🐾

薩摩をめざして 出陣!!
. . .

「おりられません…」

須磨さま こちらへ...


気を取り直して(笑) 改めてスタートです(^_-)-☆

時刻はちょうど午前9時でした

看板の案内通り 神明神社の横を通り抜けてまっすぐに進みます

ここからは 敵味方が分かりやすいように 登場人物をあらためて色分けしますね
「東軍」が赤 「西軍」が青です (^_-)-☆
島津隊はまず "味方の小西隊や宇喜多隊"に鉄砲を撃ちかけ 足手まといがついてこないように追い払ったのだそうです💦
完全に我が道を行く感じですね...

臨場感が湧くように「関ヶ原合戦図屏風」から島津隊の突撃シーンを切り出してみました(^_-)-☆

※実際には 旗指物は邪魔になるので捨てて突撃したようです

なお 島津陣の至近には福島正則隊がいましたが その迫力に「追撃するべからず!」と指示したのだそうです
戦の勝敗は決しているのに死兵に手を出しては痛い目にあうという判断でしょう...
左手に見える松林は ここまで前進してきていた家康の本陣跡


すまりんたちも家康の真横を駆け抜けます💨💨

すれ違う際 義弘は家康に使者を送り「このたび はからずも敵となりましたが 戦い利あらずして今から薩摩へと帰ります 申し開きは後日に改めて言上いたします」と伝えたとの話もありますが そんな余裕はあったのでしょうか?

こちらが家康本陣の跡
※別日に撮った写真です


戦後に首実検が行われたこの陣地跡は 記念の地として当地の領主であった竹中重門によって整備され 現在のような形となりました

正面には 「岐阜関ケ原古戦場記念館」が建っています

戦場を見渡せる展望台も備わっています(*^^*)
道中 電柱には いろいろとまめ知識が書かれていました

島津義弘のがありました!
長寿院盛淳の家は 後に阿多姓を称したそうです

盛淳が薩摩から有志とともに駆けつけたことが 義弘にはとても嬉しかったようで 秀吉から賜った白い鳳凰模様の陣羽織✨を彼に与えたと言われます
また西軍の"実質的な"総大将 石田三成も 彼に金磨きの軍配✨を贈ったそうです

忠吉は家康の四男で 当時二十歳の誕生日直前でした
(※当時は誕生日を祝う習慣はありません)
長女 政子を正室として彼に嫁がせていた井伊直政は 娘婿の初陣に是非とも手柄を立てさせたいと考えていました...

忠吉が関ケ原で着用したと伝わる鎧が名古屋の徳川美術館に保存されていますが 訪問時は展示されておらず見ることができませんでした
「徳川美術館の名宝」という書籍から引用させていただきます⤵


忠吉は器量を備えた美男子で人望も厚かったと伝わります✨

舅の井伊直政は徳川四天王のひとりで 赤備えの鎧に鬼の角のような兜を着け「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将でした!

鬼の角のような兜は ひこにゃんの兜のモチーフにもなっています(^_-)-☆

井伊直政が関ケ原で着用したといわれる赤備えの鎧 「朱漆塗仏二枚胴具足」も 彦根城博物館に現存していますが 常設展示ではないため巡り会えていません(彦根城博物館のサイトに写真があります)
直政もまた美男子として有名で 家康の寵童だったといわれています
2023年の大河ドラマ「どうする家康」では板垣李光人さんが演じておられました

島津隊はこの美男子コンビに後ろを追われることとなります

ちょっとイメージとちがうかも(笑)
JR線の陸橋を越えて坂を下ると まもなく関ヶ原駅です

そこらじゅうに歴史を学べる看板がいっぱいですね👀💛

できたら駅からこっちに向かって歩いてきたかったです(笑)
"足跡を追うシリーズ"の案内もいろいろありました(^_-)-☆

9:15 「JR関ヶ原駅」に着きました

ここまで まずは15分(1kmほど)歩いたことになります
今回は こちら関ヶ原駅始発のバスの終点「時とき」の集落を目指します🐾🐾
「時」までの歩行距離は20kmほど...

帰りはバスに乗ってここまで戻って来る予定です(^_-)-☆
駅前に観光交流館があり関ヶ原の戦いグッズがたくさん置いてありました

どん兵衛の東西対決パック✨がありました⤵

数日後 近所のスーパーで「どん兵衛の東西南北食べ比べ」を見ました(笑)
旧中山道をトレースする国道21号線を越えて 小さな路地を曲がります

実はここが伊勢西街道の起点なのです✨
しばらく進むと 奥まった民家の裏庭みたいな所に本多忠勝の陣跡がありました

個人宅の敷地のようにも見えますよね…💦



蜻蛉(とんぼ)が穂先に止まっただけで真っ二つになったという名槍「蜻蛉切」を携え「生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかった」と伝わる戦神✨本多忠勝ですが…
島津隊の猛射撃に愛馬「三国黒」を撃ち抜かれて落馬したシーンが「関ヶ原合戦図屏風(彦根城博物館)」に描かれています⤵

かすり傷を負わずに着地できたのでしょうか?
東海道新幹線の高架をくぐります🐾🐾

関ヶ原は雪が降るので たびたび新幹線の遅れの原因となる場所です💦
3月下旬でしたがまだ梅の花が満開でした(※合戦当時は初秋です)

島津隊は敵に追われながら まっすぐ続く伊勢西街道を必死に駆けたにちがいありません

9:40「九里半街道」の標識の前を通過🐾🐾

九里半街道は琵琶湖の水運と伊勢湾の水運の間を最短距離で繋ぐ物流の道で 途中まで「伊勢街道」と重複します
ここから 道は下り坂になっています

家康の追撃命令をうけた松平忠吉・井伊直政隊が「烏頭坂」で追いすがってきたため 先陣を走っていた島津豊久が後方に下がり”しんがり”を務めました

島津の戦法⚔のひとつに「捨て奸(すてがまり)」というものがあります
撤退の際に部隊の一部がその場にとどまり まさに死兵となって敵と戦って足止めをする間に本隊を逃がすというものです
敵から見えにくくするため地面にあぐらをかいて鉄砲を構え 敵の指揮官を狙撃してから敵に突撃するので「座禅陣」ともいわれます
胆力があり 鉄砲を多数装備していて しかも射撃技術が高い島津隊にしかできない戦法でしょう...
豊久はここで13人の士卒とともに「捨て奸」を敢行し 討ち取られたとも重傷を負いながら撤退したともいわれます...(>_<)


丘の上には 豊久の碑がありました


こちらは碑の横にあった薩摩ベンチ

「島津の退き口」は 今なお鹿児島県人にとって忘れられぬ事績なのですね

車道はカーブをえがいて下って行きます

並行して歩行者用の道が整備されていました⤵

今も烏頭坂という地名が残っているようです...

街道を進みます🐾🐾

木曽義仲ゆかりの「木曽神社」

右手に見える山は養老山地です

この先で...
義弘本隊は養老山地の東側へ...
そして傷を負った豊久は西側へ行ったと伝わります
魚の泳ぐきれいな清水がありました

防火用水でしょうか? 風情がありますね(*^^*)

10:08「牧田宿」までやってきました

ここで道は二手に分かれています

義弘本隊は まっすぐ進む伊勢東街道を行きました
豊久隊は 右へ折れて伊勢西街道を行きました
この辺りでふたたび井伊直政・松平忠吉隊が間近に迫ってきたため 今度は長寿院盛淳が18名の配下とともに「捨て奸」を決行したと言われます

盛淳は 義弘から拝領した白い鳳凰の陣羽織を着け 石田三成から拝領した軍配を持って敵前に立ちはだかりました
そして「我こそは島津義弘なり!」と名乗りをあげると 主君の身代わりとなって討死したのです(>_<)

こちらが盛淳のお墓のある琳光寺

本堂の脇にお墓がありました⤵


義弘本隊はまっすぐ進みましたが「島津退き口」のルートとしては 重傷の豊久らが辿った「伊勢西街道」が有名で史跡も残っているので すまりんたちも街道を折れてそちらへ向かいます🐾🐾

地図で示した紫のルートです
養老山地の西側へ進んで行きます🐾🐾

10:30 ちょっと寄り道してファミマでお昼を買い込んでおきました

牧田の付近で 関ケ原から流下する「藤古川」と 伊勢西街道に沿って流れてくる「牧田川」が合流します

当時 橋はなかったと思いますが「藤古川」のこの付近を渡渉したものと思われます

遠くに雪を頂いた伊吹山が望めました
国道のルートはさらに「牧田川」を渡っていきますが 当時の道が何度も川を渡るルートだったとは考えにくいので...

橋の手前を右折して→→
「牧田川左岸を進むルート」をとりました🐾🐾

桜の並木が延々続いています...
そろそろ開花しても良さそうな時期でしたが まだ蕾はかたそうでした

満開の土手道を歩きたかったです🌸🌸🌸
正面に見える低い尾根が伊勢西街道最大の難所といわれる「勝地峠」

梅の花でしょうか...

のどかな春の散歩道は(花粉さえなければ💦)とても心地よいです

この辺りは 江戸時代に栄えた旧街道の面影が感じられます


さて ここからいよいよ勝地峠越えとなります


ただいま11:30
これから"難所"ということで 気合を入れます!!

でも...

ちいさな須磨はカゴにのってらくちん!
ここは街道の雰囲気がありますね(*^^*)

さほど高い峠ではありませんが 坂がだらだらと続き地味にしんどい感じです

でも そろそろ峠のはず…
番所跡の石碑がありました

勝地峠は 旧道の山道が少し残されていました


この峠の麓あたりで 島津隊は最後の「捨て奸」を行いました

敵中突破の際 敵前に下馬して踏み止まり奮戦のうえ無事に薩摩まで帰国した川上忠兄・川上久智・川上久林・押川公近・久保之盛の5名のことを「小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)」と称します✨
家康の本陣脇を駆け抜ける際に使者として挨拶を伝えたのは川上忠兄(かわかみただえ)といわれますが この勝地峠では 忠兄の配下の柏木源藤の狙撃によって井伊直政が腕(足?)を撃ち抜かれ 落馬したのだそうです
また 松平忠吉も 島津方の松井三郎兵衛に組み伏せられて負傷しましたが 松井三郎兵衛は徳川方に討ち取られました
井伊直政・松平忠吉隊は 家康から追撃中止の命令が下されたこともあり ここで島津隊への追撃を断念し 引き返したと言われます
関ヶ原の戦いののち 井伊直政は自身に傷を負わせた義弘の依頼を快く受けて 徳川・島津の講和のために心を砕いたといわれますが 結局このときの傷がもとで2年後に亡くなりました(>_<)
※てくてくの都合で島津軍になりきっているすまりんですが どちらの味方と言うわけではありません

井伊家菩提寺の清凉寺には 彦根藩主 井伊家歴代の墓所があります

松平忠吉は関ヶ原の戦功により 清州城と尾張57万石を与えられました
しかしその後病気がちになり 1607年に早世してしまいます
関ヶ原の戦いで体内に銃弾が残ってしまったことによる鉛中毒という説もあるようです
同母兄の2代将軍秀忠は ずいぶんと悲しんだと伝えられます...
忠吉には子がいなかったため遺領や家臣の大半は異母弟で 家康の九男にあたる徳川義直に継承されました
これが御三家筆頭の「尾張徳川家」となりました


本来なら尾張徳川家の藩祖となった人ですが その墓所はマンション裏の駐車場の敷地内にひっそりと佇んでいました💦


勝地峠のお話に戻ります💨

すぐ先に 松尾芭蕉の碑がありました
文政の時代 近隣の集落間で山の境界線をめぐる争いがあり それが和解した記念に境界線に芭蕉の句碑を建立したのだそうです
粋な境界標ですね✨
12:05 石碑のたもとをお借りして ここでお昼にします

ファミマで買ってきたおにぎりたち...
すまきが食べ過ぎもちろん 3人分ですよ(笑)
12:15 てくてく再開🐾🐾

峠を越えたら下りはあっという間で 10分で下りてきました!

上石津町の「多良」という地区に入ります🐾🐾


街道沿いは 春のお花がいっぱいでした

大神神社(おおみわじんじゃ)という神社がありました

この社叢の大きな杉の木はきっと当時の様子を見守っていたに違いありません

そろそろ休憩したくなるところに 和菓子屋さんがありました💛


嘉永6年(1853年)創業の老舗だそうです

店内には美味しそうな和菓子がいろいろ...
迷ったけど 花見だんごといちご大福を購入しました(*^^*)



追撃がなくなったとはいえ 島津隊は傷を負った身で足を引きずりながらこの道を...
大変な逃避行だったことでしょう💦

だんごを食べている場合ではありませんね^^;
さて 次の目的地が近づいてきたようです

井之内バス停前を進んでいきました🐾🐾

待合所は ちょっと激しめ...


重傷の豊久を連れた薩摩隊一行は この地の名主の三輪内助入道一斉によって白拍子谷(しらべしだに)というところにかくまわれました
しかし豊久はその夜に落命してしまったのです(>_<)
一説には他の者の足手まといにならないように自刃して果てたのだともいわれます
三輪内助入道は豊久の亡骸をねんごろに葬って「島津塚」と呼びました
地元でカンリンヤブと呼ばれる藪の中に 今も墓所が残っています


この隣に他のかたのお墓があって 間違えそうになりましたが💦

⇩ ⇩ ⇩
もうちょっと奥まで行ったところに島津塚(豊久のお墓)がありました

正面から見たところ⤵


白拍子谷(しらべしだに)には後で行くことにして ...

先に豊久の位牌が安置されているという瑠璃光寺に参拝することにしました

瑠璃光寺は島津塚のすぐ近くにありました

豊久公菩提所の碑がありました⤵

島津家が参勤交代でこの付近を通る際には 寺へ使者を送って謝礼をし祭祀料も欠かさなかったそうです...
山門に時計が掲げられているのは珍しいですね!

最終目的地に予定している「時とき」のバス停まで もうひとつ山を越えなければなりませんが…
名阪近鉄バス「時→関ヶ原」の時刻表を検索すると バスは1日3本!

15:05発をのがすと何もない場所で2時間以上も待つことになります💦

Google Mapでは道は見当たりませんが^^;
地理院地図では山を越える道があって「時」のバス停に行けそうです

もしかしたら島津隊もこの道を越えたかもしれません…!
と思ったのが大きな間違いでした💧💧


GPSで該当する位置にたどり着いても白拍子谷と思われるものは何もなく…

だいじょうぶ?

地理院地図にあるはずの道は荒れ果てて山の中へ消えています^^;



これ以上進むのは危険と判断したすまりんたち...
仮に「時」にたどり着けなくても もと来た道の方へ戻って行けば 関ケ原行きのバスが通るバス停があるので 一応は大丈夫(^_-)-☆
ということで 元に戻ってイチから白拍子谷を探すことにしました

30分ほど歩き🐾🐾
ようやく見つけた案内板に「白拍子谷」の表記が!

「白拍子谷」は 細い川が湾曲する右岸にあるようです

標識もありました!

川の右岸 ということはこの道でしょうか?

間違えてます(笑)

地図では川がカーブするこの辺りのはずですが…何もありませんでした

引き返してうろうろしていると ふたたび標識を見つけました!

さっき通ったはずの道なのですが 気づきませんでした^^;

今度こそ!!標識通りに進みます🐾🐾


途中ちょっと不安になりましたが作業をされていた地元の方々にも助けられ…

14:30 ようやく到着です🚩

島津豊久はここで無念の最期を遂げたのですね...


結局 Google Mapとは全然違い💧💧 案内板の地図とも微妙に違う場所でした💧

生き残った島津隊は 豊久のなきがらを三輪内助入道に委ね さらに先に進んで谷筋を西に折れ「時山」という集落に向かったそうです

通説では 「時山」で伊勢東街道から山を越えてきた義弘本隊と合流後 五僧峠を越えて近江に抜けたとされています
今回のてくてくはここまで(^_-)-☆
うっかりしてバスが近づいてくる写真を撮り損ねましたが⤵(笑)

無事 (満員)バスに乗り(30分立ったまま)15:45に関ケ原駅に戻ることができました(笑)
気になる歩数は こちら!

休憩時間を含め 9時から15時45分までに25kmを踏破しました(^_-)-☆

関ヶ原に夕日が沈んでいきます...

大垣駅にて撮影
この日はこのあと さらに7000歩も歩きました(笑)
次回は
豊久と別れ 直進した「島津義弘の足跡」を追ってみます!
※てくてくシリーズではありません(^_-)-☆
→→→ 続