むかし
中国山地の山懐に抱かれた美作国(岡山県北部)に「日本のクレオパトラ」と称される 見たこともないほどに美しい少女がいたそうです✨
少女の名は「おふく」といいますが その出自はよくわからず 実はおふくという名だったのかどうかも はっきりとわかっていません(ここではおふくと呼ぶことにします)
おふくが生まれたのは戦国時代のただなかの天文18年(1549年)
当時の女子の結婚適齢期は12歳前後だったそうですが おふくもおそらく10歳ごろに 今の岡山県真庭市勝山にあった美作勝山(高田)城主 三浦貞勝に嫁ぎました
”殺生石の欠片”で有名な化生寺の背後にそびえる山が その高田城になります

まもなく二人の間に桃寿丸という嫡子も生まれましたが 幸せも束の間…
美作に侵攻してきた備中松山城主 三村家親に攻められ 城は落城し 夫は自刃してしまいます(>_<)
嫁いでわずか6年ほどのこと
おふくは桃寿丸とともに縁者の土井家を頼って落ちのびることになりました
おふくが隠れ住んでいたという場所が 吉備中央町の山里に残されています

最近は耕作放棄地も多くなってしまった棚田の風景…
米不足も当然かもしれません💦
道幅的に車で突っ込むのはためらわれたので県道沿いに車をとめて歩きます

備中の国は 鉄で有名でした
製鉄は山を丸裸にするほど薪を必要とするそうなので この辺りも今とは全く風景が違っていたのかもしれません


思っていたより道は細くなくて 最終的に運動場のような広い駐車スペースもありました
車でくればよかったです^^;

ここが おふくが隠れ住んだ屋敷があったと伝わる場所です


林の中をもう少し登ると…

お社が現れました


三浦家の守護神は 玉藻稲荷大明神だったようで 土井氏に嫁いだ三浦氏の娘がこれを信仰し 社殿を建てて殺生石の分霊石をこちらに祀っていたそうです
そのゆかりで おふくはここにかくまわれたのでしょう

本殿の裏手にまわってみます...

殺生石の分霊石が祀られていました

なんだかむにゃむにゃと キツネのしっぽが絡まったような石です

殺生石についてはこちらの過去記事をご覧下さい⤵
さて…
ここで当時の中国地方の状況を見てみたいと思います

室町時代初期には隆盛を誇った宿命のライバル 但馬の山名氏と播磨の赤松氏ですが...
応仁の乱以降 一族の分裂や 守護代・国人の台頭もあり領内がまとまらない状況が続いていました
1551年 周防・長門・安芸・石見・備後・筑前・豊前の7ヶ国の守護を務めた山口の太守 大内義隆が家臣の陶晴賢に弑逆される事件が起きました
そしてその4年後に厳島の戦いで毛利元就が陶氏を滅ぼして 大内の旧領を継ぐことになります
戦いのあった厳島の風景⤵

ふたたび勢力図をご覧ください

大内氏の混乱のなか 出雲に本拠を置く山陰の雄 尼子晴久は 出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の8ヶ国の守護という大義名分を得て 大内氏や赤松氏の勢力圏の備後・備中・備前といった山陽方面へと侵攻をはじめました
備中・備前の辺りはとてもややこしそうなのがわかりますね
こちらが1559年ごろの備中・備前付近の有力国人の勢力図

※激動のこのあたりはころころと勢力図が変わるので おおよその図になります
播磨 赤松氏の守護代であった浦上氏は
尼子氏に与して主家から独立をはかる兄 浦上政宗と 毛利と結んで尼子に反抗する弟 浦上宗景に分かれて争うことになりました⚔
1561年に尼子晴久が死去し 尼子勢力が後退すると宗景が備前統一へ動き始めます
そこで重要な役割を担ったのが家臣の宇喜多直家(本日の主役!)でした

直家は 西備前を支配する金川城の松田氏と その配下である虎倉城の伊賀氏に娘と妹を嫁がせて姻戚関係を結びます
おふくがかくまわれていた土井家は 虎倉城の伊賀氏の家老だったようです
そこでつながりができたのでしょうか...
おふくは 直家の"後妻"として嫁ぐことになったのです
この「宇喜多直家」という人は 波乱の人です
6歳の時に居城の砥石城を襲撃された際 祖父を殺され 父の興家とともに放浪することとなったといわれます

そして興家も病死し 直家は天涯孤独となったのです
備前福岡の地に 興家の墓がのこされています

やがて14歳で天神山城の浦上宗景に仕えた直家は たちまち戦功をあげて頭角をあらわします
そして15歳で吉井川河口の乙子城の城主を任されることになりました✨
「宇喜多直家 国とりはじまりの地」碑の背後にある小さな丘が 乙子城です

登ってみます(^_-)-☆

中腹にある乙子大明神が二の丸だったようですが ここでしょうか...

頂上まで続く階段...

勾配は急ですが あっと言う間に本丸に到着🚩


すぐ隣には吉井川が流れています

当時は左手に児島湾が広がる河口部で 吉備高原を貫いて津山方面へとつながる吉井川の流通を扼する拠点だったと思われます
ちょっと休憩(^_-)-☆

その後 直家は故郷の砥石城を奪還し さらに祖父の仇も暗殺したといわれます
そしてついには 妻(最初の妻)の実家の中山氏も謀殺し その居城であった亀山(沼)城を奪った梟雄とされますが 伝説には嘘も多いようです
いずれにせよ 直家は浦上宗景の配下として出色の働きをみせ 勢力を拡大していきました✨
こちらが亀山(沼)城

小さな山の形が亀🐢に似ているので亀山城とよばれました
直家は15年近くここを居城としました
周囲を湿地や泥田に囲まれた 攻めにくい城だったようです

こちらの旗印は 宇喜多の「兒(児)文字紋」

先祖の本拠地である児島郡の児の字だそうです

ところで 夫 直家に父を殺された妻はどうなったのでしょう
無念の自害を遂げたという話もあるようですが…
戦国の習いとはいえ怖いことです💧
ふたりの間には娘がいましたが 先に書いたように政略結婚で西備前の松田氏に嫁がされます
しかし その松田氏も直家の謀略で殺されるのです💦
「宇喜多の捨て嫁」という小説に そのあたりの話がモチーフとして描かれています

こちらが亀山(沼)城の登城口⤵

小さな丘なのですぐ登れます(^_-)-☆

判読不明な標識がありますが 帯曲輪のようなものでしょうか...

ここが本丸⤵


直家がこの城に入ってから7年後の1566年に おふくが嫁いできたとされます
計算すると直家は37歳 おふくは17歳になりますが このあたりも諸説あるようです

おふくの連れ子の桃寿丸はおそらく宇喜多の養子となり そして直家との間にも嫡子の「秀家」をはじめ多くの子宝に恵まれたようです✨
秀家生誕の地として「宇喜多秀家ゆかりの蘇鉄」が株分けされていました

宇喜多秀家と この蘇鉄の親株については この次の記事に出てくる予定ですので おぼえておいていただけますと幸いです(*^^*)
さて 備前・備中の状況をふりかえってみると…

尼子晴久の死後 尼子氏の勢力が衰退し 毛利元就が勢力を拡張していきます
元就の同盟者で 毛利の東方進出の先鋒となった三村家親は「天空の要塞」備中松山城⤵を落として備中をほぼ統一し さらに美作・備前へと侵攻しました

おふくの嫁ぎ先だった美作勝山(高田)城が落城し 夫の三浦貞勝が自害して亡くなったのは この時のことです
勢いにのる三村氏は さらに美作東部の三星城を攻めます
危機感をおぼえた浦上兄弟は和睦し 宇喜多直家とともに三星城に援軍を出して ここはなんとか食い止めました
しかし毛利を後ろ盾とした三村氏の勢いは止まらず 美作・備前は危機に陥っていました
ここで「謀略王」宇喜多直家の本領が発揮されます✨

直家は 遠藤秀清・俊通という 火縄銃の扱いに長けた兄弟に命じて 美作侵攻中の三村家親を暗殺させたのです💦
これは 日本最初の「銃」による暗殺事件でした
永禄9年(1566年)2月5日のことなので ちょうどおふくが直家に嫁いだ年に おふくの前夫の仇を討ったことになります
ちなみに 記録に残る銃による要人狙撃事件について Wikipedia(英語版)では以下のリストがありました(List of assassinations by firearm)

この表でいえば 三村家親の暗殺狙撃 (1566年) は 世界でも2番目?なのかもしれませんね
家親の後を継いだ元親は宇喜多への復讐を誓い 翌年 2万の大軍を率いて備前へと進攻しました
しかし ここでも直家の計略にかかり 5千の宇喜多勢に「明善寺崩れ」とよばれる大敗を喫し 備前への足がかりを失いました

中央左が家親 中央右が元親の墓です

備前をほぼ統一した宇喜多直家は その支配の中心地として岡山の地に目をつけました
当時石山城といわれた岡山城の城主 金光氏をいいがかりをつけて謀殺し💦 天正元年(1573年)までには岡山へと居城を移していたようです

👆こちらは 岡山城内にて撮影した宇喜多直家の木像(レプリカ)
本物は岡山の光珍寺にありましたが 岡山空襲で焼失したそうです
岡山城二の丸の石山曲輪とよばれる辺りが当時の石山城だったと推定されています

「岡山」という丘の横にあった「石山」に石山城の本丸がありました

こちらが石山曲輪跡⤵

岡山大空襲で焼失した石山門の跡


直家は 西国街道を付け替えて城下に導き 備前福岡や西大寺などから商人を呼び寄せて 今の岡山市の礎を築きました
しかし この頃になると織田信長の天下統一へ向けた影響力が各所へ伸び始めます
巨大な織田と毛利 そして将軍足利義昭の策謀が渦巻く中...
「謀略王」宇喜多直家は 結ぶ相手をころころと変えながら乱世を生き抜きました
直家はこの時期においてもなお 浦上宗景の被官( ≒ 家臣)でしたが ついに毛利と結んで主家の天神山城を攻め 宗景を追放して事実上の下剋上をなしとげました
やがて 信長の命を受けた羽柴秀吉が中国方面に進出してくると 元就亡き後の毛利家を継いだ毛利輝元とともに秀吉に対抗することになります⚔

天正7年(1579年)5月
直家は 信長に内応したとして三星城の後藤勝基を滅ぼしました
ところが なんとそのひと月後 秀吉の調略に応じて 直家は毛利から離反したのです!
備前と美作の領有を確約されたのが決め手だったようですが 直家の調略は秀吉の独断だったため 信長は直家のことをなかなか認めなかったようです^^;
さすがにこれほど裏切りを繰り返しては信用してもらえなかったのでしょう💧
どうにかその年の10月に和睦が成立しています
一方 寝返られた毛利も黙ってはいられません!
小早川隆景を総大将✨に1万5千の兵で備前へと攻め込みます💨💨

この頃の直家は腫物を患っていました
『直家の腫物は尻はすといふものにて 膿血出づることおびただし』(備前軍記)
字面のとおり読めば大腸がんの下血のように思えますが 外から見えるようなできものがないと腫物とはいわないので正確な病名は不明です
直家は迎撃の指揮を弟の忠家に任せました
戦上手といわれた小早川隆景でしたが 宇喜多軍の周到な作戦に引き込まれ「辛川崩れ」とよばれる大敗を喫して総崩れとなってしまいます
これは毛利にとってボディブローのようなダメージになったようで この敗戦がなければ毛利と織田の関係 そして天下の行方はまた違ったものになっていたかもしれません
直家が死去した年月日には諸説ありますが 一般的には天正9年(1581年)2月14日といわれています(バレンタインデー🍫ですね!)
その死は秘匿されますが 城から川に捨てられていた血膿を吸った衣類が流れて来なくなったのでその死が悟られたという逸話が残されています

この岸辺に血膿のついた衣類が流されていたのでしょうか...


暗殺を多用した直家は 梟雄とよばれ あまりよい評価がなされてきませんでした
大きな合戦をすることなくほぼ謀略だけによって備前一国を手中にした直家…
仏教には「一殺多生」ということばがありますが トップを暗殺して総力戦を避ける直家のやりかたは 戦死者や民衆の被害を少なくするという側面もあったといわれます

裸一貫から戦に強い強固な家臣団をつくりあげ また敵を寝返らせて調略するには恐怖による支配だけではなく 人間的な魅力や信用がないと難しいとも思われます
「直家=悪」のイメージは 忠義を重んじた江戸時代の倫理観でずいぶんと盛られているようで^^; 近年の研究では違った評価がなされてきているようです
本堂には直家の木像の写真が飾られていました(堂内の撮影は自由でした)

2月14日の命日には バレンタイン法要がおこなわれ 宇喜多ファンの歴女の方々がチョコレートをお供えされるそうです
となりに おふくの方の木彫りもありました

たくさんのチョコに やきもちをやかれないか心配です💦
立志伝中のカリスマ社長(=直家)の亡きあとを継ぐ嫡男「秀家」は まだ10歳でした
そして風雲急を告げる 織田・毛利の争いの最前線に立たされる宇喜多家の舵取りは 幼い秀家を担いだ集団指導体制となります
そのなかには 生母であるおふくも含まれていた可能性があり「岡山城の女城主」という言葉をつたえる物語もあるようです✨
いずれにせよ 織田に全ベットした宇喜多家の運命は 信長の胸先三寸にあるといってもよく その機嫌をとるには中国方面の織田家の「取次」である秀吉に頼るしかありません
翌 天正10年(1582年)4月
羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され 備中高松城の攻略にかかります
岡山城からわずか5kmの目と鼻の先にある城です
主力の秀吉軍2万に加え 宇喜多勢も1万の軍を出して備中高松城を囲むことになりました

水攻めで有名な備中高松城は まっ平らな平城です

城跡の公園の中にも水路や池があしらわれて 広大な水濠に囲まれた城の姿を彷彿とさせます...

沼地に囲まれた城は容易に接近できず 鉄砲も届かず 難攻不落でした
5月に入り黒田官兵衛孝高の策により 城を堤防で囲む工事が開始されました
堤防の起始部の一部が今も残されています


集めた士卒や農民らに破格の賃金を与えて競わせ 4kmにおよぶ堤防がわずか12日間で完成したそうです✨
折しも梅雨時の増水で 堤防内はみるみる水かさが増し 高松城は水没することになります
有名な「高松城水攻め」です
資料館に 往時の水量を再現した写真が展示されていました

本丸などの中心部を除いては 全て水没してしまったと思われます

水没した城を囲むように 各武将の陣所が設けられていました

まだ幼い秀家は出陣せず 叔父の忠家が陣代として指揮をとったものと思われます

向こうの山の上に 宇喜多の陣がありました

一方の毛利方は 毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の率いる5万の軍勢で救援に向かいますが すでに堤防は完成していて遠巻きに見守ることしかできません💧
数に勝る毛利軍でしたが 秀吉に手を回されて補給路に難をきたし全面攻勢がかけられない状況だったともいわれます
※吉備路にある造山古墳も 毛利方の前線基地として使用されていました

古墳の上から望む 正面の山すそが備中高松城です⤵

そんななかで本能寺の変がおこり 明智光秀が放った毛利への密使を秀吉方が捕らえます
先に信長の死を知った秀吉は 備中高松城主 清水宗治の切腹と領地の一部割譲を条件に急ぎ毛利方と和議を結びます
城兵の命と引き換えに切腹した宗治の辞世の句が 石碑になっています

浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して
天王山(山崎)の戦いへと向かうことになるのです
備中高松城から慌ただしく陣払いして京をめざす秀吉…
10日間で230kmを踏破した中国大返しのルートには諸説ありますが 一刻一秒を急いでいたはずの秀吉が なぜか寄り道になる岡山城に立ち寄ったうえ一泊したという話が残っています(浦上宇喜多両家記)
途中まで出迎えにきた幼い秀家とともに岡山城に入った秀吉は 当然おふくとも面会しているはずです
通常は夫が亡くなると「二夫にまみえず」ということで切り髪をして頭巾を被った姿のはずですが 毛利との戦のさなか まだ直家の死を秘していたとすれば おふくは髪を下ろしていなかったかもしれません
そして単純計算すれば当時33歳だったおふくの容色は まだまだ衰えていなかったことでしょう
あの秀吉が 絶世の美女の噂を知っていたとすれば スルーするとはとても思えませんよね
絶世の美女クレオパトラは カエサルの死後 ローマの英雄アントニウスを篭絡して トルコ南部をプレゼントしてもらったといいます…
おふくもまた秀吉を篭絡して宇喜多家を一躍 山陽の雄へと導いた…ということで「戦国のクレオパトラ」と呼ばれることもあるようです
その後 おふくは秀吉に呼ばれ 大坂城で仕えていた という話もありますが 本当かどうかはわかりません
確かなのは 宇喜多直家という信用ならない外様の小大名の亡き後 残された美しい妻おふくの子(秀家)が にわかに秀吉に引き立てられ あれよと言う間に天下人の一門になり 五大老の一角を占めるようになった✨という事実だけです
一方 おふくの”連れ子”であった桃寿丸は 宇喜多家勝と名乗っていたようです
きっと 継父の宇喜多直家と 実父の三浦貞勝から一字ずつ貰ったのでしょう
宇喜多家が美作も領有するようになり おふくは家勝に亡き前夫 三浦貞勝の名跡を継いで美作勝山(高田)城に入ってほしいと思っていたかもしれません...
しかし その願いも空しく 天正12年(1584年)京都に上った時に 家勝は地震に遭い圧死したと伝わっています(>_<)
享年23歳でした
ショックのあまり床に臥してしまったおふくの方のために 美作 湯本村の温泉に湯屋が建てられ おふくは湯治に行くことになりました♨
美作三湯のひとつ「湯原温泉」は河原に自噴する温泉で その歴史は先史時代までさかのぼるといわれます


川沿いに おふくが湯治をした屋敷の跡が残されていました

大きな湯屋のほかに寄宿10余棟が建てられたそうです
ここは美作勝山から10kmばかりの場所です
おそらく生家にも近いこの場所で おふくはゆっくり休めたのでしょうね
石碑には 一か月余りの療養後 秀吉により大坂へ召し出されたと書かれています

屋敷跡には「湯原国際観光ホテル 菊之湯」がありその歴史を引き継いでいます

おふくは文禄3年(1594年)に没したとされ 供養塔が岡山市内に残されています


供養塔に刻まれた「法鮮」という法名から「おふく」ではなく「お鮮」とよばれることもありますが 根拠は薄いです

最近の研究では この供養塔は宇喜多忠家の子である坂崎直盛の妻のものと考えられているようで 結局のところ「おふく」の確かな名前は院号である「円融院」だけしかわかっていません
そして没年についても 自筆書状の存在から慶長5年(1600年)以降も生存していたらしい?ともいわれています
のちに関ヶ原の合戦で西軍主力として戦った宇喜多秀家は 敗戦後に国を追われ 二度と岡山の地に戻ることはありませんでした
備前岡山57万石から一転 流浪の身となったおふくが その後どのような運命をたどったのか…
記録には何も残されていません...
次回は
おふくの子「宇喜多秀家」の行く末を追ってみたいと思います