もう何回目かの現存十二天守シリーズ✨ですが...
今回紹介するのは 福井県にある 丸岡城

かつての丸岡町... 現在は合併して坂井市にある丸岡城は 県庁所在地の福井市から北へおよそ10kmの場所にあります

丸岡は現存十二天守を残す城下町のなかでは 備中松山城のある高梁の町とともに最も小さな町のひとつになると思います
高い建物がないおかげで 低い丘の上の小さな天守ながら 遠くからでも見つけることができます!(北陸新幹線や 北陸自動車道の車窓からもよく見えます)

本丸のある小さな丘に隣接して 二の丸があり それらを広い内濠が取り囲んでいましたが 今は本丸の丘のみが城跡として残っています


参考までに 天守内に展示されていた模型の写真をこちらに載せておきます

先ほどの写真は 模型の奥のほうから手前側を見たアングルになります
かつての内濠跡にある駐車場に車をとめ 本丸に登ります🐾🐾


登城道は公園として整備されて 石垣を含め昔の面影はあまりありません

もともとがとても小さなお城だったうえに 1948年の福井地震で多くの石垣が崩れてしまったのだそうです
こちらは明治時代の古写真です⤵

※廃城令でほとんどの建物が取り壊された後のようで 左側の瓦屋根の建物も明治以降に建てられた裁判所です(天守は解体工事が大変なので残されました)

あっという間に 丘の上に到着!

天守のある広場からは一段下の広場となりますが 「正保城絵図」という古絵図ではここも含めて「本丸」とされています
”本丸下之段” とでもいうべき場所でしょうか...

今日は朝から一番乗り(^_-)-☆

丸岡城の券売所を兼ねた公園管理事務所のシャッターが開くと同時に入場券を購入しました

"しおり付きの入場券"は 以前に訪れた時もいただきましたが 色やデザインは異なっていました
坂を登るとすぐに天守が見えてきます


青空だと映えそうですが あいにく雲で真っ白の空でした^^;


朝イチで誰もいないので写真は撮り放題 (*^^*)


このあたりのアングルが 丸岡城天守のベストショットなのでしょうね!

高さ6.2mの天守台石垣の上に 外観2重 内部3層の独立式望楼型天守がそびえています✨
さっそく天守に入ってみます(^_-)-☆

荒々しい野面積みの石垣に 転用石も見られました

供養塔の一部が使われているようです...
丸岡城天守は 天守台石垣よりひとまわり小さくつくられています

降雨により水が浸透すると 内側の土砂重量が増し また間隙水圧が発生して石垣を押し出す力がかかります
これが石垣の「はらみだし」(=積み石が内部から押し出される現象)を引き起こし 崩壊の危険性を高めることになるのです
丸岡城では石垣と天守の間に腰屋根(腰庇)を作って 雨水の侵入を防止していました

こちらでスリッパに履き替えます

正面の階段はかなり急角度で 補助ロープが取り付けられています

一階には古写真が展示してありました

明治の廃城令で天守も取り壊されるところでしたが 地元の有志が買い戻し 寺として使うというアイデアで維持費を捻出し 生き延びることになったのだそうです

1934年(昭和9年)には国宝(旧)に指定されましたが 老朽による傷みがひどく 解体修理の必要に迫られました💦
当時の丸岡町に 3万円の出費は難しいところ 1940年(昭和15年)丸岡出身の実業家 荒田太吉氏の多額の寄付により修理が着工され 太平洋戦争が開戦となる難しい折に2年かけて再建がなされたのだそう!
ところが...
それからわずか6年後の1948年(昭和23年)
丸岡町を震源としたマグニチュード7.1の福井地震が発生しました

城からわずか2kmあまり... 北陸自動車道 丸岡ICの近くに「福井大地震 震源地の碑」がありました

戦災復興途上にあった福井は 震度6の烈震によって死者3769人という被害を出しました
丸岡町は全戸倒壊 さらに火災によって半数以上が焼失したそうです(>_<)
少し離れた福井市でも 家屋の全壊率は79.0%に達したといわれます!
福井県庁内に残る福井城の石垣にも 地震による生々しい被害の跡がそのまま残されていました⤵

修復されたばかりの丸岡城も この地震により ひとたまりもなく 石垣ごと全て崩れてしまったのです

戦後の混乱の中... 78歳という高齢をおして町長となっていた友影賢世氏

被災して建物の下敷きとなりながら生還し 災害復旧に奮闘されたそうです
そして 町の復興が落ち着くと 今度は倒壊した天守の再建を決断されました!

友影町長は東奔西走して資金を集め 北海道まで赴いて再び荒田太吉氏の助力も得ました
また 再建にあたって 昭和15年の修理時の写真や記録が役に立ちました
1951年(昭和26年)に工事が着工され 倒壊材の8割近くを再利用し組み直された天守は1955年(昭和30年)に再び今の姿によみがえったのでした✨
友景町長の銅像が本丸の片隅から 今も丸岡の町を見守っておられます

『プロジェクトX』なら ここで中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」が流れてきそうなところです♪
天守一階の紹介を続けます

随所に狭間があけられていました


こちらは "石落とし" だそうですが...

石落としというよりは ただの出窓のようにも見えますね
格子窓で外から見える上 底板もすぐに取り外せるようにはなっていません...

外から見ると こんな感じです⤵

半分ぐらい石垣に隠れてしまって 実用的かというと微妙かも...?

先に紹介したジオラマは 天守の一階に展示されていました

丸岡城は「連郭式」の平山城です
本丸と二の丸を内濠が囲み その周囲に武家屋敷のある三の丸があります

二階へ上がります
一階から二階に上る階段は 斜度が65度だそうです

階段と言うより はしごに近いです!

こちらが二階です

本多重次とその息子 本多成重のスタンドがありました

「鬼作左(おにさくざ)」で有名な 本多作左衛門重次は 三河三奉行の一人で 主君の家康に遠慮なく諫言した豪胆な人柄の逸話が伝わっています
(※同じ本多姓ですが 徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝や 家康の参謀 本多正信とは家系が違います)
武田信玄に大敗した 三方ヶ原の戦いでの武勇もありましたが 家康の家臣としておもに行政面で活躍しました✨
領民に法令を触れ回る時の立て札を書く際は 皆に読めるように難しい言い回しを避け ひらがなで わかりやすく大きな字で書かせ 文末に「右に背くと 作左が叱る」と記したそうです
作左(作左衛門)に叱られないように 三河の領民たちは法令遵守につとめたことでしょう...
築山殿(家康の正室)の侍女だったお万の方が 家康の手付きにより赤子を身籠った時 家康は築山殿の嫉妬を恐れ 作左衛門にお万を預けてかくまわせました💦
お万の子の於義丸が 後の結城秀康(家康の次男)になります
於義丸が豊臣家の人質として大坂城に送られた時 作左衛門の息子 仙千代(のちの成重)も共に人質となっていましたが 作左衛門は「母親の看病をさせたい」と嘘をついて仙千代を呼び戻し 甥の源四郎と無断で交代させてしまいました
これが秀吉の怒りにふれ 作左衛門は蟄居を命ぜられることになります
作左衛門はよほど息子の仙千代が大事だったとみえて 長篠の合戦の折にも陣中から妻にあてて以下の手紙を書いています
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
これは用件を簡潔に記した”日本一短い手紙”として有名で 手紙の手本とされ 天守の前に一筆啓上石碑がたてられています

この手紙にちなんで坂井市(旧丸岡町)では「日本一短い手紙文コンクール」を開催していて 城内の提灯などに全国から寄せられた短くも心打たれる手紙が掲示されているほか 城の近くに「一筆啓上 日本一短い手紙の館」が建てられています

さて 人質となっていた家康の次男 於義丸は 秀吉の養子とされ「秀」の一字を賜って 羽柴秀康となります
その後 小田原攻めの際 源頼朝以来の名家である結城家から養子の話があり 秀吉の承諾で結城秀康となりました
秀吉の死後 家康が天下の実権を握るようになりますが このような経緯もあって家康の後継者は豊臣色の濃い次男の秀康ではなく 三男の秀忠となったのです(長男の信康は織田信長の命で自刃💧)
関ヶ原の戦いののち 結城秀康は越前68万石に封ぜられ 彼の死後に嫡男の松平忠直がその後を相続しました
しかし まだ若かった忠直のもとで家臣が割れ「越前騒動」がおこります
忠直を補佐するために 本多成重(仙千代)が附家老として越前に赴くことになりました
本来なら嫡流であるはずの自分が 尾張・紀伊・水戸の徳川御三家となった年下の叔父 義直・頼宣・頼房より下位の立場とされていることが許せなかったのでしょうか
忠直は幕府に不満を抱き 酒色に溺れて乱行をはたらくようになります💦
将軍秀忠は ついに忠直に隠居を命じ 豊後へと配流しました
越前へは 越後高田藩主で忠直の弟であった忠昌が入部することになりました
幕府としては 越前松平家の力を削ぎたかったのでしょうか...
68万石は50万石に減ぜられ
越前大野5万石が 秀康三男 直政(のち出雲松平家)に
越前勝山3万石が 秀康五男 直基(結城松平家)に
越前大野郡内の木本2万5千石が 秀康六男 直良(のち明石松平家)に
それぞれ分封されたほか 越前丸岡4万6千石が 附家老の本多成重に与えられ 独立することになったのです
やたら美化された本多成重公✨の左上に 奇妙な狭間があけられています

こんな高い所 脚立でも持って来て撃つつもりでしょうか?


こちらの狭間は どこの敵を狙うつもりでしょうか? 屋根が邪魔ですね^^;

一階の石落としと言い 丸岡城の防御施設はどうやら飾りのようで 実戦には役立たなさそうです💧
二階には 破風の部分を利用した小部屋があります

👆窓から懸魚の裏側がのぞいていますね

丸岡城の瓦は 石でできています

当時の瓦は凍結して割れてしまうため 笏谷石(しゃくだにいし)の瓦が用いられました

福井市南部の足羽山(あすわやま)から産出する笏谷石は 水に濡れると青色に変化する凝灰岩で この辺りでは有名ですが 現在は採掘されていない貴重なものです
昭和の修理の際に笏谷石が入手困難だったため 8割ほどが白っぽい石川県産の滝ケ原石に置き換えられています

約6000枚の瓦の総重量は120トンにもなるそうです!

近くの古墳の石棺が本丸に展示されていますが こちらも笏谷石が用いられています


ニ階から三階に登る階段の斜度は67度!
現存天守の中では最も急角度なものではないでしょうか...


のぼれません…
ロープを保持して よっこらせと登ります

ちいさな須磨と一緒に 無事 最上階(三階)に上がってきました!


天井板は張られず 屋根の骨組みが見えています

四方には大きな窓があり 周囲が一望できます

高さは 本丸から約18m 城山のふもとからだと約35mだそうです
周囲には高欄がありますが 柵より外に出ることはできません

歩くと踏み抜きそうで怖いですね^^;


写真からもわかるように 高欄の床は 三階の床面とかなりの段差があり 飾りの要素が強そうです

当初は単なる腰屋根だったようで 高欄は後世の改造のようです

南のほうに高いビルがあるのが 福井市街でしょうか

背後の低い山が笏谷石を産する足羽山かもしれません
越前松平家の福井城(北ノ庄城)とは目と鼻の先になります
東側には はるか白山へと連なる両白山地が迫っていますが…

ちょうどこの谷あいの奥に かつて豊原寺(白山豊原寺)というお寺がありました

白山信仰の拠点として 越前では白山平泉寺と二分する勢力を誇っており 往時は「豊原三千坊」とよばれていました✨
白山平泉寺について書いています⤵
豊原三千坊史料館

室町時代に発生した「僧坊酒」が 清酒のルーツとされていますが 大和正暦寺の「菩提泉」河内金剛寺の「天野酒」や近江百済寺の「百済寺酒」などと並んで「豊原酒」も有名でした
ちなみに こちらは百済寺「湖東三山の紅葉」で紹介しました ↓

山中にある豊原寺の寺院跡を散策しようと思いましたが...

この先は道が荒れていて 折から近くの勝山などでクマの被害のニュースがあったので 山歩きは断念しました^^;
戦国時代... 加賀は一向一揆が国を席捲しましたが その勢いは南の越前にも迫りました
豊原寺は平泉寺や朝倉氏と協力してこれに抵抗していましたが 織田信長の侵攻で朝倉氏が滅亡すると 一向一揆勢力に降伏し占領されてしまいました💦
そして 今度は信長の大軍に攻められ 三千坊とよばれた伽藍はすべて焼け落ちて滅亡したのです(>_<)
一向一揆制圧後の越前には 柴田勝家が入りました

北ノ庄城跡にある柴田勝家像(頭の上に鳥が...笑)
そして 重要拠点であった豊原の地を治めるため 甥の柴田勝豊が豊原寺跡に入って豊原寺城を築きますが より交通の便のよい丸岡の地に城を移します
これが丸岡城のはじまりになりました
築城の際 人柱となったというお静の慰霊碑が建てられています


こちらは 天守の南東にある井戸⤵


一向一揆の残党が攻撃を仕掛けてきた際 この井戸から大蛇があらわれ 霞を呼んで城の危機を救ったといわれています

このため丸岡城は別名を「霞ヶ城」呼ばれます
龍神🐉を祀る祠もありました


天守の裏側は腰曲輪のようになっていて 本丸の石垣が残されていました


このあたりの石垣の崩れは 地震の名残なのでしょうか...

こちらの遊歩道に合流して ぐるっと一周できます

城の東側に 最大幅90mもあったという かつての内濠のイメージが再現されて「丸岡城マチヨリマーケット」という観光拠点が整備されています(入場無料)

館内には 青みを帯びた笏谷石の瓦が展示されていました

天守の鯱鉾(しゃちほこ)は 木芯銅張りの鯱でしたが 昭和の修理時は戦時中で 銅の入手が困難だったため 石製で代用されました

石製のものが展示されていますが 現在はもとの銅張りに復元されています✨

ミニシアターもありました

千田先生のアバターが VRで丸岡城の解説をして下さいます



丸岡城の天守は その望楼型の古風な建築様式から天正時代(1576年頃)に柴田勝豊によって建てられたものとされ 日本最古の天守であるといわれていました
しかし近年 天守に使われている木材の調査により 伐採年代が1620年代以降と推定され 寛永期(1624~)以降に本多成重によって整備されたものと考えられています

もちろん 本多成重以前にも天守はあったと考えられ 古い天守の様式を踏襲するかたちで 往古趣味の天守がつくられたのかもしれません...
狭間や石落としが実用的でなかったのも もう戦の無くなった時代に建てられたからということなのでしょうね
マチヨリマーケットの大きな窓からは 往時のような濠に浮かぶ城の姿を見ることができます(*^^*)

パラパラと雨模様になってきました

濡れると青みを帯びる笏谷石の瓦のせいで 丸岡城は雨が降ると表情が変わるのだそうですが どうでしょうか…

比較するものもないので この写真だけでは 分かりませんね^^;
最後は 丸岡城の夜の風景をちょこっとご覧いただきたいと思います
お天守前公園では 日没~22時まで光を使った演出がされています

人感センサーにより 人の動きに合わせた演出が楽しめます
12秒の動画です⤵
最近は各地のお城で繰り広げられているプロジェクションマッピング✨
丸岡城でも 通年 無料で楽しむことができます(*^^*)

丸岡藩誕生から400年ということで「平和の祈り篇」や「伝説篇」に加え「特別篇」として『丸岡城が語る400年時代絵巻』というテーマも掲げられていました
上映時間は15分で 開始時刻は20時と21時です
20時は「特別篇」+「伝説篇」
21時は「特別篇」+「平和の祈り篇」
※年に数日だけですが イベントが行われない日がありますので 詳細は坂井市のホームページ等で確認なさって下さい
幻想的にライトアップされた 月夜の丸岡城✨

こちらはプロジェクションマッピングの様子です⤵



約80秒の動画を添付させていただきます

次回は