※本記事は後編です
前回の記事はこちらからどうぞ⤵
徳川・前田・毛利・上杉
いずれも戦国ファンならおなじみの大名たちですが...
同じ五大老に名を連ねながら「宇喜多」について知っている人は少ないのではないでしょうか
かく言うすまりんもそのひとりで 名前は知っていても詳しいことは知りませんでした^^;
けれど 宇喜多直家・秀家父子の生涯を追ってみて その波乱万丈ぶりに 連ドラにしても飽きないと確信しました✨
さて 天下人 豊臣秀吉の猶子とされ 岡山57万石の大大名となった「宇喜多秀家」のお話の続きです

秀家の妻「豪姫」は ちいさな須磨が演じています(笑)

豪姫は前田利家とまつとの間に生まれた娘
秀吉と寧々に養女としてもらわれ それはそれは大切に育てられたといわれます
その豪姫を妻として 栄華の階段を駆け上ってきた秀家でしたが…
慶長3年(1598年)8月18日
秀家の最大の後見人であった豊臣秀吉が 伏見城で逝去してしまいます

ある意味 分不相応に秀吉によって引き立てられていた秀家は これまでの栄華の代償を払わされるかのごとく 急転直下の運命を辿ることになりました💦
翌年から2年にわたって 宇喜多騒動とよばれる家臣間の争いが発生!
事態は宇喜多譜代の家臣たちによる 新参の中村刑部の襲撃未遂に発展しました
※前編でも触れましたが 中村刑部は豪姫の付き人として前田家からつかわされた家老で 経理や土木治水にすぐれた有能な人だったので 秀家に重用され 岡山の町づくりや城の改修 そして太閤検地のような検地をおこなって 国の財政基盤を整えるのに活躍した人です✨
もともと同格の国人たちを束ね のし上がった宇喜多家…
そして幼い主君を輔弼してきた重臣たち…
そんな主君が 豪姫とその付家老を重んじて あまつさえ惣国検地で自らの懐事情に手を突っ込まれるということが我慢できなかったのかもしれません
秀家の内政には秀吉が口出ししていたに違いなく 秀家がそれに逆らえるわけもないのですが 秀吉亡き後一気に不満が噴出したのでしょうね💧
この騒動で 譜代の重臣だった戸川・岡・花房氏を含めた70人にも及ぶ家臣が宇喜多を出奔しました
重用していた中村刑部も去ることになります...
勇猛精強で鳴らした宇喜多の家臣団は櫛の歯が欠けたようになり 中立だった家老の明石掃部を中心に 浪人を雇い入れてなんとか立て直しをはかろうとしました
けれど 同年秋に勃発した関ヶ原の戦いに 家臣団の編成が間に合ったとは思えません💦

それでも秀家は西軍副将として1万7千という西軍最大の軍を率いて参陣します


凄惨な戦があったとは思えないほど 今はひっそりとした森の中にあります


旧暦 9月15日(10月21日)早朝
東軍の先陣争いで松平忠吉隊を出し抜いた福島正則隊が 合戦の口火を切って最初に宇喜多隊と衝突しました

福島隊の先鋒は可児才蔵
槍の名手として知られ この合戦で20もの首級をあげて家康に賞賛されました
討ち取った首を持ち運べないので 口に笹の葉を含ませて証拠としたことから「笹の才蔵」と称された人です
宇喜多隊の先鋒は明石掃部でした
キリシタンだった彼は関ヶ原の後 明石全登と名を変えて大坂の陣で豊臣方に加わりました
大河ドラマ「真田丸」では 小林顕作さん演じる明石全登が 黒マント姿で活躍していましたね!
人材不足の宇喜多隊をよく率いて 午前中は福島隊を押し戻すまで善戦しましたが 小早川秀秋隊の裏切りで側面を攻撃され 総崩れとなってしまいました💦
追手を逃れ 秀家は落ちのびます

秀家はここから北東20kmほどの白樫という地でかくまわれたと伝わります


背後の山には かつて白樫城があり 美濃守護代の斎藤家が居城としていました
明智光秀の筆頭家老で 春日局の父である斎藤利三は かつてこの地の城主だったといわれます
秀家は 斎藤家の家老であった矢野家に42日間かくまわれたそうです
たぶん個人宅の庭のような場所に 「宇喜多秀家公匿居の地」の碑がありました

秀家の御子孫のかたの揮毫だそうです

矢野重昌という人が関ケ原近辺でさまよっていた秀家の一行と出会ったそうです
秀家のあまりの容貌の気高さと流浪の哀れな様子にうたれ さぞや立派な大将だとみて自宅にかくまう決心をし この地に案内したようです...
きれいな人は得ですね✨
東軍の追手に対し 矢野氏は秀家を自宅の土室に隠したといいます
秀家は歌を詠み 月の夜には近くの河原で乗馬などをして過ごしたそうです



もしかしたらここは今も矢野さん宅のお庭なのかしら?
矢野氏は秀家を病人にみせて "あんだ(担架のようなものでしょうか)" に乗せ 数か所の関所を突破して大坂の備前屋敷に送り届けたと伝わります
秀家は 豪姫と再会することができました💛

愛する妻と大坂でつかの間の再会を果たした秀家ですが...
この時を最後に 二人が再会することはありませんでした
秀家は追手を避け ひそかに島津家を頼り薩摩に逃れます💨
宇喜多家では 幕府に対して「秀家は自害した」と申し述べていました

鹿児島市からちょうど桜島をはさんで錦江湾の向かい側の大隅半島 牛根郷
秀家はここの郷士 平野家に保護されました


さかんに煙を吐く桜島が 目の前に見えます

海辺に近い平野家下屋敷から 山のほうに向かいます

民家の間の細い路地を抜け 道は山の中へと続いています


平野家はもと平家の落人で この地に潜伏して土着したのだそうです
隠れ家に適した地だったのでしょうか


しばらく歩くと 潜伏屋敷の跡地がありました

2年あまりの潜居の間 秀家は毎日3km離れた神社に通い 家臣や岡山の領民の安寧を祈ったといわれています

こちらにも蘇鉄が植えられていました

前の回で紹介した岡山県の亀山(沼)城に蘇鉄があったのを覚えておられるでしょうか

これらの蘇鉄の由来は もう少し先にでてきます(^_-)-☆

うたたねの 夢は牛根の里にさえ 都忘れの 菊は咲きけり
この地で秀家が詠んだ句だそうです
岡山城の石も置かれていました

しかし ついに秀家の潜伏は幕府の知るところとなって 島津家も匿えなくなり 慶長8年(1603年)に伏見に出頭しました
秀家の処分は死罪を逃れられないところでしたが
豪姫と兄の前田利長または実母の芳春院(松) そして島津忠恒の嘆願によって 流罪に減刑させることができました
このころ豪姫は 京都の高台院(寧々)のもとに身を寄せていました
寧々は現在の圓徳院に住んでいて すぐ近くの高台寺に日参して秀吉の菩提を弔っていたといわれます...


高台寺門前の道は「ねねの道」とよばれています

きっと豪姫もともに 義父の菩提を弔ったにちがいありません

秀家の流罪に際して 豪姫も一緒に流罪になる意思を伝えていましたが 家康はそれを許さず 豪姫の願いは叶いませんでした💧
そののち豪姫はキリシタンの洗礼を受けることになります
松永久秀の姪にあたる 内藤ジュリアの勧めだったといわれます
失意の中 神にすがる気持ちがあったのでしょうか
秀家は 二人の息子とともに久能山に留置されることになりましたが…

※久能山東照宮が造営されたのは後のことです
嘆願の効果もあってか 実際には駿府城の二の丸に留め置かれたともいわれます

駿府城 復元された本丸堀と 二の丸の巽櫓
慶長11年(1606年)下田から15歳と9歳の二人の息子と 10名ばかりの従者とともに 秀家は八丈島に移送されました

江戸時代 流刑地となった八丈島ですが 秀家はその「最初の流人」となったのです
御蔵島とその先の八丈島との間には 当時黒瀬川とよばれた黒潮本流が流れ 八丈島は渡航にも危険が伴う隔絶された島でした

ひょうたん型をした八丈島の ちょうどくびれの部分にあたる中心地近くに 宇喜多秀家の住居跡地があります

ここにも岡山城の石がありました

立派な蘇鉄は 当時から庭木にされていたのでしょうか

岡山と鹿児島の"秀家ゆかりの地にあった蘇鉄"は 実はここから株分けされたものでした
今回豪姫を演じたちいさな須磨が 家臣たちを連れて 秀家の霊前にお参りします

家臣団証👆は 宇喜多直家の菩提寺である岡山市内の光珍寺でいただきました



屋敷跡の裏手に 秀家の墓があります

着物を着てくるのを忘れましたにゃ (/ω\)

三菩薩の 種を植けんこの寺へ みどりの松の一あらぬ限りは
秀家の辞世の句と伝わります

秀家の没年は明暦元年(1655年)
享年84歳の長寿で 江戸幕府は第4代家綱の治世となっていました
運命のいたずらか 関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた人となりました

無事に秀家さまにお参りできました💛
重臣だった花房志摩守は 宇喜多騒動で出奔しましたが臨終の間際まで秀家の安否を心配していたらしく 花房氏の家名が続く限り宇喜多氏を援助することを遺言したそうです
こちらはその花房志摩守に対する礼状です(岡山城にて撮影)


加賀の前田家や花房氏をはじめとした旧臣から支援があったようですが 島の生活は不自由だったらしく 嵐のため八丈島に退避していた船に乗っていた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話や 八丈島の代官に飯を馳走してもらった際におにぎりにして家族への土産にした話などが伝わっています
大名家としての宇喜多家は滅亡しましたが 二人の息子の血脈は現在まで受け継がれています
一方の豪姫は 慶長12年(1607年)頃に金沢の前田家のもとに娘の貞姫と共にひきとられました
化粧料として1500石を受け 金沢西町に居住したと伝わります

👆豪姫の着用した小袖の端切れ
金沢城下の黒門前緑地が 豪姫の屋敷跡でした


寛永11年(1634年)秀家の安否を気遣いながら 豪姫は61歳で生涯を終えました

無粋な余談ですが 日本三大墓地というものがあって 対馬市の「万松院」 萩市の「毛利藩墓地」そしてここ金沢の「前田藩墓地」がそれにあたるのだそうです
あまり嬉しくはないですが すまりんたちはこれで日本三大墓地をコンプリートしました
前田家の墓所は他の大名家とは違い 陵墓のように土盛りとなっています
こちらが前田利家の墓


ちょっと荒れ気味ですが 立派なお墓です

こちらが利家夫人の「松」の墓


豪姫の墓は 実の両親のすぐ近くにありました (18 ↓)

失意の娘を 実母の松をはじめとした前田家の人たちは大切に遇したようです

豪姫の墓は修復中のようでした

ペロンと紙をめくって撮影⤵

金沢城下「にし茶屋町」のすぐ近くにある大蓮寺が豪姫の菩提寺となっています

裏門に 豪姫のレリーフがありました⤵

予約しないと拝観はできませんが
本堂内にはこちらの豪姫像が納められているそうです

この絵は八丈島の秀家と二人の息子のもとにあったものだそうで まだ幼かった息子たちはこの肖像画を母と思い絵を撫でたために 額の部分が擦り切れて白くなっています
豪姫は八丈島の秀家に 毎年白米を70俵 金子を35両 その他医薬品などを送り続けていました
いつか赦されて 夫と再会することを望んでいたと言われています
秀家も 八丈島での50年におよぶ長い余生の間 現地妻のようなものを置きませんでした
秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島の南原海岸に 秀家と豪姫の像が仲良く並んでいました

この日はあいにくの曇天でしたが 晴れていれば西に沈む夕日がとても綺麗な場所のようです✨
沖に見える八丈小島のさらに西の彼方に 故郷の岡山があるはず...

一途に想い続けた二人の魂が 天国で寄り添えているといいですね💛

やたら ねずみ色な写真(笑)
次回は
追記
今回の台風22号で 八丈島の住民の方々はさぞかし大変な思いをされたことと思います
続く台風23号の進路も気になります...
被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げます