「豊臣政権の五大老」と言えば...


毛利輝元 (山口 萩城にて撮影)

上杉景勝 (山形 米沢城にて撮影:左)

以上の4人の方々はみな有名で NHK大河ドラマの主役または準主役になっていますよね!
ところで「五大老」なので もうひとり...
唯一 まだ大河の主役になっていないかたがおられまして💦
それが今回の主人公✨

前回は 父 直家と 母 おふくの 波乱万丈な生涯を追いました
秀家の生涯も両親に負けず劣らず波乱万丈💦
ということで 今回は"宇喜多秀家の足跡"を追ってみます
その前に
彼の最愛の妻「豪姫✨」のお話から始めさせていただきますね

👆ちいさな須磨に 打ち掛けを羽織らせてみました(^_-)-☆
「十二単のも見てにゃ♥」⤵


屋敷の周りに一重の堀をめぐらせただけの 館のような城だったようです

「豪」は前田利家と妻 まつの四女としてここで生まれました✨
天正2年(1574年)のことです
まつ像(金沢 尾山神社にて撮影)
利家と松(まつ)は仲の良い夫婦として有名ですが 二人の祝言の媒酌人となったのは木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と妻の寧々(ねね)でした
夫同士・妻同士がともに同世代で 家族ぐるみの付き合いだったようです!
将来 そろって大河ドラマの主役で登場することになるなんて思ってもいなかったでしょうね(笑)
「太閤記」1965年 「秀吉」1996年
「おんな太閤記」1981年
「利家とまつ」2002年
ところで 利家と松は11人の子宝に恵まれたのに対し 藤吉郎と寧々には子がありませんでした
松が5人目の子を身ごもった時 生まれる子の男女にかかわらず藤吉郎と寧々の養子にすることを切望されました
その約束通り「豪」は数え2歳で 養女としてだされました
藤吉郎は1573年に羽柴秀吉に改名し長浜城主となっていますから 豪は長浜に引き取られたものと思われます

秀吉夫妻は それはそれは豪を溺愛したといいます
遠征の陣中からの「早く帰って顔をみたい」という秀吉の手紙が残されているほか 「おまえには三国一の婿殿を選んでやる」などと言っていたそうで 実の娘のように思っていたのは確かなようです
天正7年(1579年)5月 安土城が完成し信長が移り住みます

安土城天主 信長の館にて撮影
安土城の特徴のひとつは 大手口からまっすぐにのびる大手道

この両脇に 家臣たちの館が並んでいたと推測されています
階段を登り始めてすぐ右側に「伝 前田利家邸趾」があり…

大手道をはさんですぐお向かいさんが「伝 羽柴秀吉邸趾」

江戸期と違って家臣の家族を安土城下に集めることはなかったようですが 過剰に忠誠心を示す秀吉のことですから 人質を兼ねて寧々と豪を安土に住まわせていた可能性はあるでしょう
この頃には秀吉は山陽道・山陰道の攻略を任されていましたから 長浜より安土のほうが近いということもありますね

この屋敷跡伝承はあまり根拠がなさそうなのですが...
もし本当なら 豪は向かいにある前田家の実の両親や兄弟たちと交流する機会があったかもしれません
豪は賢い子だったようで 秀吉は「豪姫が男なら関白に就任させたい」とまで言っています
単に親バカだったのかもしれませんが…(笑)
成人後も 豪が出産の都度体調を崩して寝込む原因が「狐憑き」であるという噂を聞いた秀吉は 伏見稲荷大社に対し「娘を解放しなければ日本中から狐を殲滅してやる!」と恫喝の書状を送ったほどだそうです💧
豪姫は実の娘以上に愛されていたようですね(*^^*)

伏見稲荷大社の正門(楼門) は 秀吉により造営寄進されたのだそうです
ちなみに狐さんの間に立つ2人の猫(笑)は すまりんの両親です(^_-)-☆
天正10年(1582年)備中に侵攻した秀吉は 毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めにします

秀吉は 毛利に対する最前線の同盟相手として宇喜多氏を選びました
徒手空拳の身から備前一国を勝ち取った宇喜多直家は前年に亡くなっていましたが 後を継ぐ10歳の秀家(=今回の主人公✨)を盛り立てて宇喜多勢は奮闘しました
秀吉は秀家を猶子(相続権の無い養子)として後見したばかりでなく 大切な豪姫を秀家に嫁がせることにしました
※秀家10歳 豪8歳の時で 両家の婚約のみ交わされたものと思われますが 天正16年(1588年)までには婚儀がおこなわれたようです
前回書きましたが 秀家の父 直家は 流浪の身から14歳で播磨守護代家の浦上宗景に仕官し 翌年には小さいとはいえ城を持つまでに出世しています✨

もちろん 直家が知略武勇に優れていて 元は浦上家家臣の血筋であったこともあるとは思いますが 器量良しでないと流浪の少年など採用してもらえないと思うので きっと直家は美少年だったのではないでしょうか✨
直家の妻となった 絶世の美女 おふくの方(=前回の主役)

岡山 吉備中央町のおふくの方隠棲地にて撮影
その二人から生まれた秀家は 当時の記録でも「気品があり 美しく整った顔立ち」と記されていて 秀吉にずいぶんと気に入られたようです
大人になってからも彼は170cmと高身長のうえ眉目秀麗で 登城すると女たちがざわついたといいますから やっぱりすごくハンサムだったのでしょうね✨

宇喜多秀家が生まれたのは豪姫より2年はやい元亀3年(1572年)でした
前回もご紹介した亀山(沼)城に生誕地の碑がありますが...

※真ん中の小さな球です↗
父の直家が同年に岡山城に移っているので 岡山城で生まれた可能性もあるようです

直家当時の岡山城の本丸だった 石山曲輪跡
毛利と織田という大勢力がぶつかる最前線で難しい舵取りをしていた直家は 秀家が10歳の年に病死してしまいます
八郎という幼名でよばれていた秀家は 羽柴秀吉の助けを借りつつ元服し 信長の許しを得て宇喜多家の家督を継承しました✨
秀家の"秀"は 秀吉から貰ったものです
とはいえ 幼い秀家が宇喜多家を率いていけるわけもなく 重臣たちによる集団指導体制となりました
直家の異母弟の宇喜多忠家 そして 富川(戸川)・長船・岡・花房といった まだ直家が小さな乙子城主だった頃あたりから主従と言うよりはきっと仲間のような間柄で戦国の世を生き抜いてきた家臣たちが宇喜多家を支えたのです

宇喜多直家「国とりはじまりの地」碑(背後の小さな丘が乙子城です)
備中高松城攻めには 幼い秀家の名代として宇喜多忠家が一万の兵を率いて参陣したと伝わります


堤防を築いての水攻めは秀吉の参謀 黒田官兵衛のアイデアとされていますが 最初に献策したのは宇喜多の重臣 花房正成らしいです
たしかに土地鑑がなければ成功させるのは難しい戦法ですよね!

信長亡き後...
秀吉が天下人への階段を駆け上って行くその後を追いかけるように 青年期の宇喜多秀家は 地方の小さな戦国大名の家から一躍 栄華の道へと進んで行きます✨
備中高松城攻めから3年後…
天正13年(1585年)に 小牧長久手の戦いに乗じて蜂起した 雑賀・根来勢に対しての紀州征伐に参加したのが秀家の初陣とみられます
天正15年には秀吉より豊臣姓を賜り 正四位下参議に叙任されました
そして翌年には従三位に昇階し 摂関家に次ぐ清華家相当になっています
この時点での武家の公卿は 豊臣一族の秀吉・秀長・秀次を除けば 織田信雄・足利義昭・徳川家康 そして宇喜多秀家だけでした
天正18年(1590年)小田原征伐に出陣し 8500の軍勢を率いて小田原城包囲に参加しました

(※中央に薄く鉄塔が見える山です)
宇喜多秀家は 写真右端あたりにある水之尾付近に陣場を構えたと言われています
防塁をはさんで正面に対峙していた北条氏直の弟 氏房とは堀越しに表情まで見えたそうで 仲が良くなり 秀家は酒や魚を届けて講和を勧めたそうです
氏房からは伊豆の江川酒が返礼として贈られました
小田原在陣中のこの年から8年間にわたって岡山城の大改修がはじまっています
備前宰相にふさわしい城構えをという 秀吉の言葉があったようです

宇喜多時代の建物は残っていませんが 当時の石垣は現存しています


櫓門の真下の新しく築かれた石垣とは 色や積み方が違うのがわかりますね

本丸は江戸初期に拡幅され 宇喜多時代の石垣は埋められていました
発掘された石垣が保存されています


天正19年(1591年)17歳の豪姫が おそらく京都の屋敷で嫡男 孫九郎(秀高)を出産しています(2年前に生まれた長男がいましたが 夭折したようです)
秀家と豪姫の間にはほかに長女の貞姫(理松院)と次男の小平次(秀継)がいました
朝鮮出兵では七番隊として秀家も海を渡りました⛵


宇喜多家の陣地は 名護屋城南方の丘の上にあったようです

正面の丘が溝口秀勝の陣地跡で その背後に隠れるようにある山に宇喜多の陣地がありました

しばらく進んだ先に 宇喜多秀家陣跡の標識がありました

小雨で足場の悪い中 登ってみました🐾🐾

こちらの電波塔の北側に 陣城の土塁や食い違い虎口があるようですが…

何の表示もなく これ以上の深入りは断念💧


ここから大軍が渡海して行ったのですね...
当初は破竹の勢いで進撃した日本軍でしたが 戦線が伸びたところに李如松率いる明の大軍が来援すると 平壌を奪還されて漢城(ソウル)に迫られます💦
文禄2年(1593年)漢城郊外の碧蹄館の戦いで 秀家を総大将とした日本軍が明軍を迎え撃ち もう少しで李如松を討ち取る寸前の大勝を得ました✨
一方 反撃して幸州山城を攻めるが大敗し 秀家自身も矢傷を負いました💧
やがて両軍は講和交渉を開始することになります
日本に戻った秀家は 岡山の領国統治にのりだします
豪姫の付き人として前田家からつかわされた家老 中村刑部は経理に明るく土木治水にもすぐれていたため 秀家に重用されて岡山の町づくりや城の改修に活躍しました
岡山城天守は先の大戦の空襲で焼失し 1966年に再建されています

秀家の天守は 5重6階(数え方に諸説あります)の望楼型天守でした
用いられていた金箔瓦が出土しています

岡山城にて撮影
先の大戦まで江戸時代からの天守は20基残されていて 岡山城天守も宇喜多秀家が慶長2年(1597)年に完成させたものがそのまま残されてました
実質的には現存最古とされる犬山城よりも創建年代が古かったといわれますが 空襲で焼失してしまいました

戦前の古写真(別冊歴史読本 「城古写真カタログ」より)
烏城と称される黒漆塗り下見板張りの外壁に 金箔瓦を施した姿は 大坂夏の陣図屏風に描かれた秀吉の大坂城ととても似ている気がします

空襲で失われたのがとても残念ですね💧
文禄3年(1594年)
宇喜多領内の惣国検地が 中村刑部の主導で行われますが これが後の波乱の原因となったといわれます💦
慶長2年(1597年)明・朝鮮との講和が決裂し 慶長の役がはじまります
秀家も再び渡海し 左軍の指揮をとりました
翌年の慶長3年 日本に帰国して死期の近づいた秀吉を見舞います
冒頭に出てきた 徳川・前田・毛利・上杉・宇喜多の「五大老」はこのときに成立したとみられています
そして8月18日
秀家の最大の後見人であった秀吉が 伏見城で逝去

京都 豊国神社の秀吉像
分不相応に秀吉によって引き立てられていた秀家は これまでの栄華の代償を払わされるかのごとく 急転直下の運命を辿ることになるのです💦
. . . 続
