TagLinkで関連ノートを辿っていると同じノートが開く。
最近書いたブログに共通のテーマが流れている。 それが可視化されます。
言語が消滅する前に
この本なのですよね。 KindleハイライトをWebクリップしたノート。 『言語が消滅する前に』のクリップが頻繁に「関連ノート」として出てきます。 どうも今がこれを読み直す「時」らしい。
ということで読んでみました。 目次を見て、第4章「情動時代のポピュリズム」だけ。 そこの対談に目を通してみた。 ちょうど民主主義の話です。 今から5年前。 まだコロナでドタバタしていた頃です。 「安倍、辞めろ」とか話題になっているからまだ安倍首相も生きている頃。 そんな時代があったのか。 忘れてました。
ポピュリズムが取り上げられています。 トランプの移民排斥政策など、 極右の人たちが「根拠のない話」をもとに情動に訴え、 自分たちの都合がいいように政治をコントロールし始めた。 それに対し左派の人たちも 「戦争反対」とか連呼して、情動にアピールする政策を展開する。 つまり、言葉で対話することがなくなり、 民衆の共感を頼りに「味方」を増やす戦略に変わってくる。
言語の地位が低下し、情動に焦点が当てられるようになった。 この傾向は今の日本も同じで、 右も左も情に訴えるばかりで言葉が軽んじられている。 しかもそれは政治だけではなく、 日々の生活でも「本が読めない」という事態になっている。
どうもここに「私への問い」があるらしい。
道具的/玩具的
20世紀は言語の時代でした。 それ以前は「神」に根拠があり、 神無き時代となっても「理性」を人間の根拠としてきた。 「理性的な西洋文明こそ至高」の進歩観でした。
20世紀は人間の根拠を「言語」に置いた。 文化的相対主義となるとともに 「言葉を持つこと」が人と動物を区別するメルクマールになった。 言葉を使い思考することに「人間」の本質を見ていた。 構造主義の全盛期です。
それが21世紀に入ると瓦解していきます。 「言語」はただの「コミュニケーション」と見なされ 「情報を伝えるツール」になります。 カラスの鳴き声と変わりません。 そして「情報」が「情動伝達」として重要視されるようになります。
國分先生と千葉先生の対談は 「道具的/玩具的」の二項対立をめぐり進んでいきます。 パラフレーズすると「わかりみ/おもしろみ」ですね。 この間『本が読めなくなった人たち』で読んだところ。 それが「道具的/玩具的」という用語で語られます。
「コミュニケーション・ツール」と見るのは道具的です。 何か目的があって、その手段として「言語」がある。 言葉は道具なわけです。 だからスキルを身につけることだけが問題となる。 そうした言語観がいま世界を覆っています。
玩具的のほうは遊びです。 遊びとは目的と手段が一致した状態です。 言葉、それ自体が楽しい。 詩や文学の世界。 現代社会でその側面が失われてきているのではないか。 それが二人の間で「言語の消失」として危惧されています。
福尾先生の『置き配的』とも重なりますね、これ。 言葉が道具的になって中身を問われなくなっている。 情動をめぐって「敵/味方」を分断したり 「上から目線」で抑え込んだりする。 言葉がただのツールに成り下がっています。
そうした風潮に対抗する手段が「文学や日記」なのは、 それらが玩具的な自己目的性を帯びているからでしょう。 誰に見せるわけでもないけど愉しい。 何かを言葉にすること自体で享楽が完結している。
情動の時代
とはいえ、言語の地位が失墜してもいいんじゃないだろうか。 それを「動物化」と言われても、 だからどうした? so what? な気持ちもあるなあ。 マイルス風に。
言葉にロゴスとパトス、エートスの3つが含まれることは、 古代ギリシアのアリストテレスが『弁論術』で指摘しています。 「何を今更」な思いもある。 現代の哲学があまりにロゴスに偏っていて、 パトスを軽視してきたことの報いじゃないか。 というか、やっと情動を考察すべき時代に入ったとも言えます。 これからこれから。
そもそも「玩具的」を考えるなら、 そこにある「おもしろみ」とは何か考えねばなりません。 それは情動と向き合うことです。 心から「愉しい」と思えること。 「カロン」を育てること。 「ロゴス→・←パトス」の「・」を見つけること。 そこに真善美の「美」を問う哲学があるはずです。
資本主義がまず消費者の「情動」を利用するようになり、 政治が右派も左派もそれに倣った。 その結果が「他者を憎んだり嫉妬したりすること」 であっては目も当てられません。 美しくない。 恰好悪い。
となると「情動とは何か」を考えておきたいし、 一緒に考えたい。
まとめ
それはそれとして「再読」。
前に読んだ時と今読むのと視点が違う。 それは当たり前で「前に読んだときの影響」がその後も続いていて、 生活の中で考えたり新しい本を読んだりしている。 そしてもう一度読むと、その全部が響き合います。
これが「愉しい」。 対談に参加しているライブ感がある。
言語が消滅する前に (幻冬舎新書)