とうとう出会ってしまった。
空の時代の『中論』について
前から気になっていたけど本屋で目が合ってしまった。 こういう場合は買わねばなりません。 「読むタイミング」が来た証です。
というわけで第一回目を読み終えました。 お坊さんたちの合宿に清水先生が呼ばれ、 宴会ついでに読書会をした。 初めは『中論』のさわりだけのつもりが、 盛り上がって何度も合宿して全部読んでしまった。 温泉に入って酒も入り、 なかなか楽しそうで羨ましい。 そのお裾分けが本になっています。 みんな酔っ払ってノリがいい。
レジメと『中論』の本文と清水先生の解説とが混在し、 もう少し編集のしようがあるんじゃないかと思うけど、 そこは許しましょう。 ナーガルジュナが「何」と戦ってこんな複雑な論を立てたのか。 それを意識するのがポイントです。
古い仏教から袂を分かつための分岐点。 それは何であったのか。
魂はあるのか
生き物が死んだら輪廻転生する。 それが古代インドの死生観です。 お釈迦さんもそのこと自体は否定しない。
でも輪廻転生する主体は何かと問われると微妙です。 普通は「魂」を考えます。 インドでは「アートマン=我」と呼ばれてきました。 ところがお釈迦さんはその存在を否定しました。 「無我」の立場です。
すると「輪廻転生する主体」は何なのでしょう?
ナーガルジュナ以前の仏教哲学では 「プトガラ」(=人の中に住むコビトさん?)というものを考えたり多要素に分解したりして、 なんとか辻褄合わせをしようとしました。 アートマンはないけど「何か」が転生するのだろうの立場です。
紀元2世紀の外科医ナーガルジュナは この状況を「おかしい」と思った。 「輪廻転生する働き」はあるけれど、 それを「輪廻転生する主体」として名詞化するところに 間違いが生じるのではないか。 「働き」と「主体」と「対象」。 この3つの関係を少し考えてみようじゃないか、と。
それを論じたのが『中論』です。 たぶん。
一異門破
働きと主体。 同じではないけれど、 まったく別でもない。 それを「不同不異」と言います。 微妙な関係ですよね。 第一回の合宿ではそこあたりを多角的に論じています。 人間の思考は二項対立に頼っているので、 すぐ「同じか違うか」と結論を迫ります。 でも正解はどちらでもありません。 そのあいだの「関係性」に正解がある。
ただ『中論』の第一章はその前段階として 「自己原因か、他者原因か」の原因論から始まります。 人は「関係性」を原因論だと思い違いしているからです。
清水先生は西洋哲学に引き寄せていて、わかりやすかった。
古代ギリシアの物理学では 「石が落ちるのは、石に落ちようとする性質があるから。 火が昇るのは、火に昇ろうとする性質があるから」 という自己原因論がよく使われます。 そのものに、そうしようとする目的がある。 ひまわりの種がひまわりに育つのは 「種の中にひまわりになろうとする力があるから」と考える。 そうした目的論です。
それがデカルトくらいになると 「重力が働くことで石は下方に落下する」と、 外部に原因を求めるようになります。 これが近代科学の機械的世界観に発展していく。 外から刺激を受けることで物事は変化する。 個別性はなく、何事も(神の定めた)法則に従っている。 そうした考え方に変わっていきます。
仏教でも同じように二つの立場があった。 自分に原因があるのか、それとも外部に原因があるのか。 どちらが正解なのか論争が繰り返されていた。 自分が原因なら、ダメな自分がいくら修行してもダメじゃないか。 外部が原因なら、そもそも修行することに意味はあるのか。 これはこれで大問題。
生まれか育ちか
清水先生は物理学で説明しているけれど、 そこは「人」で考えていいかも。
「努力できるのは生まれつき」という自己原因論と 「親ガチャで人生は決まる」の他者原因論。 こういう二つの立場があります。 これってどちらを採用してもむなしい。 人を幸せにしない考え方です。
たしかにこれらは「働き」を名詞化しています。 まずそこに気づく。 「努力する」という動詞の話なのに 「努力する才能がある」と言い換えることで 「才能の有無」に論点がすり替わっています。 そこでやる気が削がれてしまう。
環境のほうだと、さらに 「環境を悪くしている原因」を外部に探すことになり 「政治が悪い」「国際情勢が悪い」「神様が悪い」ということになる。 「政治が良くなるまで待ってください」と言ってもそんな日は来ない。 無力感に襲われるだけです。
でもそれは「AがあるからBがある」の原因論に問題があるんじゃないか。 結果を見ておいて、さも最初から原因があったかのようにあげつらう。 この思考パターンが墓穴を掘っている。 ヒュームみたいなこと、言いますね。
「働き」があって、 それを認識するとき「主体と対象」の名詞化がされる。 その結果を見て原因(=主体)が事後的に同定される。 それが基本形。
お釈迦さんの十二縁起論は 「無明→行→識→名色→…」と進みます。 「行」が「働き」で「識」が「認識」です。 「名色」は一般に「精神と肉体」とされるけど 「名詞化」なんじゃないかなあ。 まあ、勝手な読みですけど。
だとすると、何か始めるとしたら試しにやってみることです。 やっているうちに面白くなってくるかもしれない。 環境も変わってくるかもしれない。 何も起こらないかもしれないし、別のことがしたくなるかもしれない。 少なくとも「いい経験」にはなる。 下手な名詞化(=言語化?)をして、そこに居着くのはもったいない。
まあ、そんな俗っぽい話じゃなくて ナーガルジュナにとっては仏教の根幹。 十二縁起をどう滅するかが重要で「いい経験」の話ではありません。 ただ、それでも「人」の話をしてるんじゃないか。 そこが仏教の関心事だし。
十二縁起論は第二回目の合宿みたいなので、 答え合わせはそのときに。
まとめ
まず「やる」を始めて、それが後から「やる気」と呼ばれる。 はじめに「やる気」という原因があったわけではない。
でもそう考えると、今度は「やる」を原因にしてしまいます。 そこは「同じではないけど、異なってもいない」。 「やる」と「やる気」の間に相互作用が起こることで進展していく。 この感じだろうなあ、一異門破というのは。
空の時代の『中論』について