そういえば「ノマド」という概念があった。
遊動的な生活
奥野先生の本の後半。 狩猟採集民の生活形態を「遊動的な生活」と評していて、 そこに「ノマディック」とあるのを見て 「ノマド」を思い出しました。
ノマド。 定住民に対し「遊牧民」を指す言葉ですよね。 今だと「ノマドワーカー」で聞くかもしれない。 「オフィスに縛られない仕事のしかた」を意味したりします。 その「ノマド」。
これが和訳で「遊動」となるわけか。 柄谷行人が柳田國男を論じた『遊動論』を思い出しました。
日本には、農耕を主とする定住民の文化と、 歩き巫女や修験道者たちの遊動する文化とが混在している。 定説では、 柳田國男は初め「山人」のような遊動民に焦点を当てていたが、 やがて稲作などの農耕文化に比重が置かれるようになったと言われる。 でも晩年の『海の道』などにも遊動への思いが綴られているのではないか。
そうなんですよねえ。 芸能も宗教も、村から村へと歩く人たちがいて伝搬される。 西行も歩いたし芭蕉も歩いた。 民衆たちも四国巡礼したり伊勢参りしたりした。 日本人はADHDなのですよ。 「定住」を前提にすると「文化」は捉えられない。
「定住」は為政者にとって都合がいい。 圧政を行っても民衆が逃げていかないからです。 手枷足枷をはめられた状態になる。 それがパワハラやセクハラの温床ですね。 「場」に縛られ、逃げ道が塞がれている。
奥野先生によると、 狩猟採集民にそうした「為政者」は現れません。 食料や情報を私物化するリーダーがいたら、 他の人たちは離れていくからです。 気前よく人に与える人が「ビッグマン」と呼ばれ、 他の人たちから慕われる。 なので「ビッグマン」は誰よりも見すぼらしい身なりをしているそうです。
これは家族においてもそうで、 子どもも生まれた家に縛られない。 自分にとって居心地のいい家を探し、 そこで暮らして構いません。 そうするのが「当たり前」と思われている。 これなら児童虐待も起こらないだろうなあ。
ノマド的な書き方
「書くこと」もノマドです。 アイデアという獲物を狩る狩猟採集民的なあり方です。
だからか「書くこと」を 「園芸」や「建築」に喩えるメタファーがしっくりこない。 それらが定住民的だからかなあ。 人が「言葉」をコントロールする前提がありますよね。 マネージメントする。 そこが「本当に?」と疑ってしまいます。
アニミズムから考えると 「人が他の生き物たちをコントロールする」は無理な話です。 そんな特権は人間にない。 その代わり 「人が他の生き物たちに配慮する」は可能です。 ハイデガーの「気遣い」。 それを「書くこと」に応用する道があるのではないか。
配慮としてのマネージメント。 アイデアが出てきたとき、 それを自分の都合のいいように書き換えるのではなく、 むしろそのアイデアのまま書き留める。 そしてそのアイデアの立場に立って状況を記述してみる。
それは初め、自分でもどこに進むか見通しが立たないでしょう。 でもそちらに進む。 進んだ先で、何か開けてくればそれでいいし、 開けなかっても「今回はここまで進んだ」という標識を立てておく。 そうした文体。
たぶんアランのプロポはそうした書き方をしている。 アイデアへの配慮と敬意に突き動かされていると思う。 「そのアイデアは私に何か伝えようとしてくれている」という信頼かな。 ちょっとパラノイア的な雰囲気があるし。
三日坊主のススメ
ノマド的な書き方はアイデアにこだわらない。 ツールにもこだわらない。 飽きてきたらそこで文章を終わりにしていい。
「飽きる」は大事な素質ですね。 子どもの遊びと同じです。 夢中なうちはそれとダンスを踊り、 そのダンスに満たされたら飽きて終わりになる。 自然と終止符が打たれる。
「飽きる」は「開く」を語源とするのでしょう。 クローズドな状態からオープンな状態に戻る。 別のアイデアが入ってくる隙間が生まれる。 「開く」は「空く」であり空間を生み出すことだからです。
飽きるときは何かが「明らか」となり日のもとに晒される。 あるいは自分の限界を知り「ここまでか」と諦める。 そっか、この発想は『瑠璃の宝石』で学んだんだな。 楽しいことにはいつか終わりがやってくる。 でもそれは、次の楽しいことの始まりでもある。 それがたぶん「飽きる」ということの本質。
だから「続かないこと」を大切にしていいかもしれない。 それは「定住しないこと」であり「遊動し続けること」。 何か始めても長続きしない。 この間使っていたツールを今は使っていない。 そうしたとき「おお、私は遊動している」と感動してもいい。
そうした遊動する関心をそのまま言葉にすること。 ブログはそれができる。
まとめ
実は奥野先生の本。 中身の段落がバラバラです。 何か移動中の合間に下書きしたんじゃないかなあ。 ときどき短く尻切れトンボな段落が紛れ込んでいる。
こういう論文の書き方もありだなあ、と思います。 アイデアがアイデアのまま採集されている。 無理に一貫性を持たせるんじゃなくてね。
そうした書き方が「遊動する文体」。
遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)