アメリカ系がactualize、ヨーロッパ系はrealize。
ブログブーム
「ブロガー、スピリチュアルビジネス、キラキラ起業」 が並んでいるのに驚かされたというか、 そこに自己実現のある時代があったなあと再確認。 「知名度・お金・権威」が絡んでいた。 「書くこと」とズレたところに手段が設定されていた。
これには堀さんの 「到達不可能にみえた「目的」に対して「手段」が目の前に輝いて見える状態」 の指摘が響きます。 「自己実現」は到達不可能ですよね。 それは「書くことで誰かと、世界と、つながる」だからです。 その不可能な「目的」にインターネットは「手段」を与えた。
そもそも「書くことで誰かと、世界と、つながる」の可能性は 庶民にはありませんでした。 特別な訓練を受け、それに応える才能を持つ「エリート階級」 に限られていた。 一般の庶民は毎日汗水を垂らして百姓をし、 そして寿命尽きたら死ぬだけでした。
それが時代とともに庶民にも「世界とつながる可能性」が生まれた。 パソコン通信はまだ「テクノロジーに詳しい」というハードルがあった。 訓練も才能も必要だった。 でもインターネットがそのハードルを壊します。 そのときダムの決壊のように流れ込んだのが 「ブロガー、スピリチュアルビジネス、キラキラ起業」なのでしょう。
それらは「恵まれたエリート階級」を模倣します。 庶民にはなく「エリート」が持っていたもの。 それが「知名度・お金・権力」でしょうね。 それまでの「エリート」が行っていた自己実現をモデルとする。 憧れつつ同一化する。
それが「ブロガー」といった存在だったのかもしれません。
なぜブログが廃れたか
この仮説からすると、 なぜ廃れたかも導き出せます。 世界から「恵まれたエリート」がいなくなったからです。 セレブはいるけど「エリート」はいない。
子供の頃からインターネットを使い 「書くことで誰かと、世界と、つながる」が当たり前である時代に移行した。 発言するのに雑誌の審査を受けなくていいし、 ラジオにハガキを送らなくていい。 訓練も才能も要求されない。 そこに「エリート」のモデルはありません。 むしろ「古臭いもの」の代表として嫌悪の対象になる。
誰かが書いてたなあ。 昭和はまだ『一杯のかけそば』がドラマになった。 貧しい母子家庭の子どもが苦労して医者になる話です。 平成の初めまではそれが「自己実現」だった。 典型的なサクセス・ストーリーです。
これが現代のドラマではウケない。 1999年に堀井憲一郎が調査したところ、当時の若い世代は誰一人として「いい話」と思わなかった。 「医者になったから成功」という価値観がなくなっていた。 「エリート階級」がなくなりつつあった。
今Wikipediaを読みながら気づいたけど 「1999年」でそうなっていたのか。 てっきりインターネットが普及してからだと思ってました。
でもそうかもなあ。 就職氷河期ですね。 「努力すれば社会的に成功できる」という価値観が崩れた。 医者になるのも、 医者の子供が家業を継ぐためになるのであって 「自己実現」でもなんでもない。 お金で進学すればなれる「教育格差」の話でしかない。
するとネットが始まってブロガーになったのは、 まだ「エリート階級」への憧れを持ちつつ、 従来の「エリート階級」には反発を感じる 「狭間の世代」となりそう。 もちろん自戒も込めてだけど。 個人的に「エリート」とは吉本隆明や柄谷行人なので。
でも子供の頃からSNSをしてYouTuberもしてる世代は、 そうした「エリート意識」は持ってないだろうなあ。 ネットは「日常」の延長で「elite」の「選ばれた」という感覚がない。 「普段の自分」のままで「自分の生活」と密着している。
そこでは「世界」と「世間」の区別もされてないだろう。 パブリックとプライベートの境界があいまい。 それ自体は「自己表現」として素晴らしいけれど、 もし炎上が起こればプライベートな空間まで燃え尽くす。 両価的な立ち位置になります。
自己実現
自己実現には、self-actualization と self-realization がある。
上記の「世界と世間の区別」で言えばマズローですね。 世界とのつながりは自己実現欲求で、 世間とのつながりは承認欲求です。 他者とのつながりか、身内とのつながりか。 それはやはりレベルの異なることです。
マズローの「自己実現」は actualization のほうです。 行動として表現すること。 アーレントの「活動 action」に関わるかもしれません。 自分の損得をとりあえず考慮から外し、社会に貢献すること。 そうすることで得られる「生きる喜び」がある。 それが actualization の立場です。
もう一つの self-realization は「リアル」にすること。 アリストテレスの「エネルゲイア」に由来する概念で 「ひまわりの種を育てるとひまわりの花が咲くこと」です。 自分の中にある「可能性」に気づき、それを現実とすること。 そもそも realize とは「気づく」という意味なので、 ソクラテスの「汝自身を知れ」の延長にあります。
堀さんの「書くことで誰かと、世界と、つながる」は actualize で、 「心の不安に後ろから強い光をあてて投じられた影」は realize でしょう。 日本語の「自己実現」は両面を表す豊かな言葉になってます。 actuality(現実)と reality(真実)。 この2つを兼ね備える。 「自己とは何か」と問えば「どう生きてきたか」が答えになるのですから。
そうした意味でいまは過渡期かもしれません。 パブリックとプライベートが未分化なままになっている。 「パブリックなもの」を立ち上げる契機が必要。 それはブログがなるのかもしれないし、 新しいメディアが出てくるのかもしれない。
まとめ
アニメの『グノーシア』で思ったのですが、 人狼ゲームをしながらその勝ち負けが目的ではない。 セツから「このゲームを通して、人とは何かを知ること」が目的として再設定される。 このストーリーは深いなあと思いました。
というのも「他者を知る」も最終目的でないのが明らかだからです。 それは寄生している「銀の鍵」の都合。 主人公にとって目的は何かと問い直す機会が来れば 「自分を知ること」になるからです。 だって彼は「記憶喪失」なのだから。
他者との関わりを通して「自己」に気づく。 「グノーシア」もギリシア語の 「知る gnosis」由来なので、 ユーリがグノーシアになったとき転機が訪れるかもしれない。