あれ、そうだっけ?
ハイデガーを水平化する
第6章の「ハイデガーを水平化する」まできました。
ほらやっぱり。 ハイデガーは「垂直」だけでなく「水平」についても目配せしている。 実存に関して他者論が含まれているし、 その他者論には「本来的な他者」もあったという議論です。 なんか松本先生の論の進め方は 「オオカミが来た」と叫んでから 「私がオオカミを退治しました」と言い出す感じだなあ。 あまり感心しない。
でも他者論の整理はありがたい。 配慮は「道具への配慮」と「他者への配慮」に分けることができ、 「他者への配慮」つまり「顧慮」は 「尽力的顧慮」と「垂範的顧慮」に分けることができる。 このうち「垂範的顧慮」だけが本来的である、という話です。
なんか、漢字が上滑りしていてわかりにくいですね。 しかも松本先生は「尽力的顧慮」の方が水平的で治療的という立場です。 いったい何の議論をしているのでしょう。 ちんぷんかんぷんです。
松本先生は「垂範的顧慮」を「手本を示して模範を垂れる」と解している様子。 師匠の背中を見て、弟子たちがその技を盗む感じですね。 対して「尽力的顧慮」は、相手のすべきことに手出し/口出しする感じです。 子どもの夏休みの宿題を代わりにやってしまうお父さんとか。 「他者への配慮」ではあるけど「子どもの本来性」には何も寄与していない。 むしろ「こうするのが普通」という同調圧力をかけてます。 こういうのをハイデガーは嫌う。
ただ松本先生的には「垂範的顧慮」に師弟関係が入るので 「水平的」と呼べない。 すると水平的な配慮は、消去法的に「尽力的顧慮」の方だろう。 だからハイデガーは「水平的」にも考えていた。 そんなアクロバティックな論証をしています。
いやいや、本当か?
語義から考える
そもそもドイツ語ではどういうことでしょう。
「尽力的」は einspringen という動詞の進行形です。 英語でもそうだけど、進行形にして形容詞化している。 この einspringen は英語にすれば in-spring という感じ。 前置詞と動詞の組み合わせで、新しい動詞を作ります。 「内に飛び込む」というニュアンスですね。 だから「尽力」と訳されている。
でも einspringen は慣用句というか、動詞としてすでに意味を持っています。 「代行する」です。 代わりに行う。 退職代行や謝罪代行の「代行」。 それが einspringen の語義。 だから「宿題をするお父さん」が einspringen だとされるわけです。
問題は「垂範的」の vorausspringen のほうです。 ネットで検索しても出てこない。 造語っぽい。 vorspringen はあります。 「目の前で飛ぶ」。 つまり「手本を示す」はある。 どうもハイデガーを訳した人が vorspringen から「垂範的」とした可能性がある。
でも voraus は「あらかじめ」という意味ですね。 「あらかじめ飛び込む」。 たしかに「手本を示す」と変わらないけど、 ニュアンスに違いがあります。 「目の前」ではなく「お先に」という感じ。 露払い的というか。 ビンスワンガーが「治療者自身もあらかじめ教育分析を受けていること」 と理解しているのは、それが voraus のニュアンスだからでしょう。 「目の前で手本を示すこと」ではありません。
むしろ voraus の方が当事者グループじゃないだろうか。 グループで誰かが「自分の体験」を話す。 「先日こんなことがあって。でも今も生き延びています」。 そうした話を追体験しながら、 聞いている方にもいろいろな思いがよぎる。 同じようなことではないけれど、 似たような思いが自分にもあった。 そう思いながら聞き流す。
こうした追体験が「あらかじめ飛び込む」ではないだろうか。 「垂範的」と訳すから「垂直的」と思うだけで、 ドイツ語のどこにも「上下」を表す言葉は入っていない。 どちらかというと「前後」はある。 生き抜いてきた先輩たちの言葉がある。 でも「何を」は人それぞれで、そのまま真似するものでもない。
そんなニュアンスが vorausspringen じゃないかと思いました。 すると「尽力的/垂範的」と訳すよりは 「代行的/予行的」と読む方がいいのかなあ。
まとめ
クラの神話が出てくるかと思ったけど、 そこは飛ばしちゃってますね。
ハイデガーは女神クラから押さえないと、 まるで自分ひとりで生きているかのような誤解を産んでしまいます。 Daseinの Da。 場所的存在だということを忘れてしまう。
斜め論: 空間の病理学 (単行本)