ダンダダン、ストーリーは無茶苦茶なのに、 なんでこんなに面白いのだろう。
原作を読む
ということで原作を一巻から読み直しています。
アニメはアクションシーンに力を入れているけど、 漫画だとそこあたりは端折りながら、 見開きの一枚絵で見せつける表現を取ってますね。 妖怪や宇宙人たちの圧倒的な力と、 小さくて弱々しい人間との対比。 これもある意味「二項対立」の視覚化になっている。
ダンダダン自体は第1話で完結しています。 高倉健に憧れる女の子が「高倉健」と出会う。 Girl meets boy な物語です。 「おばあちゃん」も第1話では普通に「おばあちゃん」で、 ファンキー霊媒師ではありません。 第1話で打ち切りになってもいいや、の覚悟がありますね。 そんなに先まで考えてなさそう。
でも「高倉健」は高倉健認定してもらえず 「オカルン」としか呼んでもらえない。 これがストーリーの原動力になってくる。 予兆は描かれています。 オカルンがモモから「高倉くん」と呼ばれるのが最終回でしょう。 あるいは「健さん」かもしれない。
その最終回に至るまでのプロセスを、 引き伸ばして引き伸ばして、いま20巻まで出てるのかあ。 この二人、相思相愛なのは明白なのに ちゃんと名前で呼び合わないんだよなあ。 そこに、新しい妖怪憑きのメンバーが加入して ばあちゃんちに居候して大所帯になる。 そのたびに宴会を開くのは『ワンピース』の影響でしょうか。
たぶんターボババアの力を借りているうちは、 オカルンは「高倉健」ではないということだろうな。 とすると『ヒカルの碁』みたいに、 いずれターボババアがグッバイする展開がありそう。 これは泣くなあ、泣くかなあ、でも泣くかも。 オカルンが自分の力でモモを救わないと、 彼は「高倉健」に戻れない。
なかなか難儀なミッションですね。
なぜスマホを買わないのか
アニメの方はジジと邪視の関係が一段落して、 次はモモのバイトのエピソードです。 メイド喫茶のアルバイト。 メイド喫茶って今もあるものなのでしょうか。
そもそもダンダダンの時代設定は「現代」なのだろうか。
だいたい出てくるネタが古い。 「24時間戦えますか」とか「バカ殿」とか。 モモがおばあちゃん子だから趣味が昭和? それだけで片付く話でもありません。 ガングロの同級生なんて今どきいないだろう。 ハヤシと言ってX-JAPAN、出すなよ。
(歌ってるのはフリーレンでヴィアベル役の谷山さん)
これ、今どきの高校生がついてこれるネタじゃないよなあ。 お父さん/お母さん世代のネタですよ。 懐古趣味というか、一周回って新しくないですか。
だからスマホが合わないんだと思う。 第1話でモモはオカルンとスマホでやり取りしているけど、 結局セルポ星人に壊されてしまう。 スマホが時代設定に溶け込めなかったからだろう。 友だちのスマホとか出てきてもすぐ役立たなくなる。
これはダンダダンの世界が昭和時空だからですね。 昭和だから都市伝説が生きているし、 地球に向かって宇宙人が攻めてくる。 オカルトが生活に密着していたのが「昭和」です。 みんな『ムー』を読んでいた。
失われた「昭和」は「高倉健」の姿をしています。 「絶滅したわ、そんな男」と言われる理念的男性像。 モモが 「健さんだったらこういうときどうするだろう」と自問するように、 それは男女を超越した「生き方」です。 それが何だったかを物語は追想し、鎮魂歌を奏でようとしている。 もう、その生き方が復活することはないかもしれない。
「高倉健」と対になるのが「お化け」と「宇宙人」ですね。 虐げられ殺されていった女性たちの怨念であるターボババアと、 科学によって画一的に量産される男たちのセルポ星人。 これらは「昭和」の負の側面でしょう。 そして今も続いている。
| 出会う他者 | バナナ | |
|---|---|---|
| オカルン | ターボババア | 虐げられた女性性 |
| モモ | セルポ星人 | 量産される男性性 |
オカルンはターボババアの無念を引き継ぎ、 モモはセルポ星人の力に触発され超能力を発見した。 男女の関係が交錯しているのは、 恋愛関係が「異性の力を自分のうちに宿すこと」だからでしょう。 それは「バナナ」ではあるけど、 物理的なものではない。
だから、オカルンはキンタマを失うことになります。 「不器用」を体現する。 性的なものを心理的な水準で成熟させるために。 「去勢を経て大人となる」だと陳腐だな。 健さんだったら、そんなことは言わない。
まとめ
ヒンメルも言わない。 ダンダダンとフリーレンに通底するテーマ、 ありますね。
ダンダダン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)