プロポ。 その魅力的なフォーマット。
アラン
『幸福論』で有名なアランの生涯を追いかけた入門書。
でも彼は哲学者なのだろうか。 第二次大戦のとき反戦を唱えていたのは知っているけど 「いつの時代の人?」と尋ねられると 「パスカルやモンテーニュの頃?」と答えそうになる。 ベルクソンと同時代と言われると「ウソー?!」と思うし、 サルトルとの接点もなさそうだし。 (追記:サルトルはアランの教え子でした)。
哲学者ではなくモラリストなのではないか。 モラルと言われると「道徳」だと思ってしまうけど、 フランス語では moral が「道徳」で、 モラリストの morale は「気力」です。 人間の奥底に潜む生命力。 それを観察し記述するのがモラリストです。
アランは高校の先生をしながら、 新聞に短いエッセイを投稿していた。 無報酬だったので趣味みたいなものだけど、 コラム欄が用意されていたらしい。 このコラムを集めたものが彼の著書となっていきます。
アランはこのコラムを「プロポ」と呼びます。 propos は「こそこそ話」くらいのニュアンスで、 a propos で「それはそうと」という慣用句になります。 気軽に使われる日常語みたいですね。 アランはそれを一つの「文体」とした。 執筆スタイルに昇華したわけです。
きっとこれはロラン・バルトの「断片」に繋がる思想家だな。 書き集めたテキストをそのまま提示する。 それをどう読むかは読者に委ねられる。 読者に響くものがあれば僥倖だし、 どこがどう伝わるか作者にはコントロールできない。
そんなテキストの快楽に近いところにアランはいます。
プロポから見たブログ
新聞に投稿されたプロポは便箋2枚の分量で、 毎日何らかのテーマで書き綴ったらしい。 ということは、アランがもし現代に生きていたら、 ブログを書いただろうというイメージが湧いてきます。 学校で授業するだけでは飽きたらなかった。
問いが、小さな断片の数々に細分されている。
高校生に哲学を教えながら、 そこで浮かんできた日常的な「問い」を 「大人たち」にも考えてほしかった。 「世の中とはこういうものだ」と諦めるのではなく、 「問い」に刺激され、考えることを放棄しない。 「目覚めた状態」を共有したかった。
これはソクラテスから綿々と受け継がれる哲学者の態度です。 寝入りそうになる牛のまわりを飛ぶアブのような煩わしさ。 象牙の塔に籠っても意味ないんですよ。 「寝ちゃダメだ。目を覚まして」とうるさくする。 哲学はお節介な存在であるべきです。
ただ「幸福とは何か」とテーマを立てて書くものでもありません。 実際アランがプロポを書く段階では 「そのとき気になったこと」と向き合うだけだった。 自分が何について書こうとしているか、 わからないままに書き留めたようです。
でも、そのプロポがある程度溜まってくると 「これとこれは関係あるんじゃないか」が見えてくる。 そこで初めて、自分が何に問題を感じていたか気付き 「論」として見通せるようになる。 プロポをパズルのように並べ替え、彼は著書として出版しました。
これはブログでもそうですね。 うちみたいなスクリプトをガチャガチャやっているブログでも、 1週間を振り返ったり1か月を読み直すと「テーマ」がある。 地下水のような底流の存在に気づきます。 「管理とは何か」だったり「便利とは何か」だったりする。 それが小さな「問い」の集まりから浮かび上がってくる。
やっぱり定期的に振り返りを書いた方がいいのかもしれない。
まとめ
この『アラン』はアランが戦争とどう向き合ってきたかが焦点なので、 プロポについて深く掘り下げてはいません。
でも、アランはプロポのネタをどう探して、 どういう切り口で便箋にまとめたのだろう。 そちらが気になる。 そういうアラン論はないかな。
追記
アランの文体論を教えてもらいました。 thx。
これを読むと「素材か形式か」の二項対立で 「素材に語らせる」というスタンスですね。 あらかじめ用意した型にはめ込むと素材の味わいを殺してしまう。 素材自体が自ら語りかけてくるので、 書き手はその邪魔をしないように心がける。 まるで寿司職人のような文体論が展開しています。
アリストテレスの「質料因 vs 形相因」を背景にしながら、 質料に内在する力を引き出そうとしていて、 たしかにジンメルの「生の哲学」をフランス語に移植した感じがする。 カンディンスキーのコンポジションが添えられているのはなぜだろう。 時代的に「即興」や「直観」に価値が置かれたのを示しているのでしょうか。
アラン ――戦争と幸福の哲学 (ちくま新書 1862)