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エーリッヒ・フロムに見るテトラレンマ

あるいは分析ツールとしてのテトラ。

フロム

今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる (講談社現代新書100)

岸見一郎,エーリッヒ・フロム

岸見先生の「まとめる力」に舌を巻くフロム入門。 たった100ページなのに精神分析家エーリッヒ・フロムが簡潔に要約されています。

ポイントはどこかなあ。 個人的には「ヒューマニズムは、生きるための技術である」ですね。 ライフスキルというか、ライフハック。 生まれや育ちとは関係無しに、 どういうスキルを身につけると「生きること」が喜びとなるか。 もちろん、生得的な要因もあるし環境的な違いも大きいけど、 それを超えて「何を習熟するか」が人生の充実感を左右する。 そうしたスキルが「ヒューマニズム」という用語に凝縮しています。

では「ヒューマニズム」とは何か。

この二項対立に要約されると思いました。

ヒューマニズム

もちろんフロムの「敵」はナチズムなので 「権威主義的倫理」で想定しているのは全体主義的な道徳観です。 でもその反対概念を「民主主義」とは呼ばなかった。 「ヒューマニズム人間主義」という言葉をフロムは持ち出します。

今となると「ヒューマニズム」はどことなく古臭い言葉ですが、 当時はまだ手垢がついていないキーワードだったのでしょう。 もともとはルネッサンス期の「人文主義」を表す言葉で 「人間主義」とは関係ありません。 ある意味「人間」という概念は近代以前になかったのかもしれない。

産業の発展とともに人々が都会に住み核家族を形成するようになった。 それに伴い、血縁や地縁、宗教的な束縛から離れた「個人」が生まれた。 それが新しい「人間」という概念ですね。 ニュータイプのヒューマン。

彼らは「自由」です。 あらゆる束縛から離れているのだから。 そして「孤独」です。 あらゆる共同体から離れているからです。

そして「孤独」に耐えられるほど強くはない。 この「孤独な自由」を抱えて生きるにはスキルが必要です。 それが「人を愛する技術」になります。 どう他者とつながり直すのが自他ともに幸せとなる道なのか。 それを自分で考え、実践し、試行錯誤する。 それが「人を愛する技術」です。 これを積み重ねることで「人生」は紡がれていく。

でも自分で考えることを放棄する人もいます。 失敗して傷つくことが怖い。 どう生きるかを他人に決めてほしい。 「自由」を放棄し「世間」に同調することで安心しようとする。 そちらが権威主義的倫理ですね。 その思いとは裏腹に、 他人に振り回されるからいつまでも安心できない。 いつも不全感に苛まれる。

現代社会はこうした病理を抱えてしまいました。

テトラ

権威主義的倫理は二項対立を作って 「我々は正しい。悪いのはあいつら」という図式を使います。 「悪」は必ず外部にある。 対してヒューマニズム的倫理では 「他者と繋がり直し、どう大きな共同体を再構築するか」が命題になります。

これをテトラレンマに落とし込むと:

  1. 我々は正しい
  2. 我々が正しいのか、彼らが正しいのか
  3. 我々も正しく、彼らも正しい
  4. 我々も正しくなく、彼らも正しくない

この4つのうち、第1と第2が権威主義であり、 第3がヒューマニズムなのだと思いました。 と同時に、これはクラインの対象関係論でもあるなあと気づいた。

  1. 妄想態勢:我々は正しい
  2. 分裂態勢:我々が正しいのか、彼らが正しいのか
  3. ??態勢:我々も正しく、彼らも正しい
  4. 抑鬱態勢:我々も正しくなく、彼らも正しくない

自分の中の「悪」を抱えることができず、 その「悪」を他者に投影することで内界を安定させようとする。 でも「悪」が外部に移されたことで 「他者から攻撃される」という恐怖が生まれる。 そうしたジレンマに苦しみます。

第1レンマと第2レンマを往復する状態が「妄想分裂態勢」になります。 この状態だと不安が収まることはない。 必ず「敵」が必要になってしまうからです。

この不安を乗り越えるには、 自分の内にある「悪」を受容するしかありません。 「自分も正しくないのかもしれない」。 自分も不完全で、無力で、愚かである。 その事実をありのまま受け止め、 同じ不完全で、無力で、愚かな他者と力を合わせ、 少しでもマシな世の中を作っていく。 それがクラインの「抑鬱態勢」になります。

こう見てみると、フロムの「ヒューマニズム」も抑鬱態勢じゃないですね。 いま気づきました。 「私もOK、あなたもOK」な相対主義になってるなあ。 ヒューマニズム的倫理においては「悪」が消えてしまう。 消えたらダメでしょ。 無意識的な「悪」として潜航するじゃないですか。 そうなったら手のつけようがありません。

そもそも「権威主義 vs ヒューマニズム」という二項対立が第2レンマなので、 権威主義に「悪」のすべてを投影しています。 ヒューマニズムに「悪」を残さない。 「他者を愛する技術」と言いながら、 その「他者」から権威主義的な人たちを排除しています。 これでは「書いている内容」と「書いているロジック」とで齟齬が生じる。 デリダなら嬉々として指摘しそうな矛盾を孕んでいます。

ここがフロムの限界、 というか、ポストモダニズム以前の限界だったのかな。

まとめ

人を「モノ」として扱うマインドセットを 「ネクロフィリア的」と名付けていて衝撃を受けました。 フロムは一通り読んだつもりだったのに意識に残ってなかった。

資本主義の根幹にあるのが「ネクロフィリア=死体愛」です。 あらゆるものを「商品」というモノに換算する。 そこでは「生きること」を捉えることはできません。

でもガジェット好きって基本的に「ネクロフィリア」なんですよ。 コントロールできるものが大好き。 だから自分の盲点になっているのだろうなあ。

追記

東くんがキーパーソンだと思ってたのに。 篭絡されてしまった。




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