不思議なもので 清水先生の『空の時代の『中論』について』を探し 本屋さんをブラブラしていたら、 この本と出会いました。 まさに是空之場。
まず西田幾多郎と会う時節にあるのかな。
善の研究
「100分de名著」の西田幾多郎。 2019年に放送された内容を加筆修正して、 新たに特別章を追加しています。 これは読みやすそうだ。
見返しにある「『善の研究』の4つの章を逆から読めば、意外なほど腑に落ちる」 の一文がいいですね。 この方法論に惹かれました。
たしかに山登りも頂上に到着し見晴らしが拓けてからが醍醐味です。 頂上から振り返ると、その道筋もたどりやすい。 そこまでで思索の整理がされていますからね。
本は頭から順番に読まなくていいのです。
読むためのテトラレンマ
書くことにテトラがあるなら、読むことにもテトラがあります。
- それはAである
- それはAなのか、Bなのか
- それはAであり、Bである
- それはAでなく、Bでもない
テキストは「AかBか」の二項対立で進んでいくけれど、 読み取るものは「AでなくBでもない」の地の部分である。 そういう心構えでテキストを読むこと。
言い換えると、 テキストにはオープン・クエスチョンの「問い」が隠れているけど、 表面的には「AかBか」のクローズド・クエスチョンになっちゃう。 表面に目を奪われると浅い理解になるし、 書いてる作者自身も、意外とテキストに騙されて迷子になったりする。 そこに気をつけて、隠れている「問い」を意識しよう。 そんな感じです。
こう単純化すると「はじめに」が読みやすくなります。 何がパターン4のオープン・クエスチョンか、 それを考えながら読むと
実在の完全なる説明は(中略)何のために存在するかを説明せねばならぬ。
という西田幾多郎の一文がある。 「何のために存在するか」。 それが『善の研究』で取り組んでいるテーマだということ。 「何のために存在するか」=「どう生きるのが善いか」だから、 この本は『善の研究』となっている。
「はじめに」では、そのあと「西洋哲学/西田哲学」の二項対立になります。
- 西洋哲学ー論理ー言語ーあたま
- 西田哲学ー直観ー至誠ーいのち
これは清水先生が批判していた「東洋哲学=超論理」の図式ですね。 でもまあ、ここは若松さんの話に耳を傾けましょう。
幾多郎は「どう生きるのが善いか」を考察しようとした。 それを顕わにするための二項対立なので、 西洋哲学が悪役レスラーにされてます。 ここは「互いの見せ技を披露するプロレス」と割り切って観戦するのがマナー。
「はじめに」だけでパターン2の二項対立の枠組みと、 全体を通して流れるパターン4の「問い」を押さえることができました。 オープン・クエスチョンの「問い」を描写するために 「西洋哲学か、西田哲学か」のクローズド・クエスチョンが展開する。 そういう構成だと予告しています。
目次は全てを語る
それから「目次」を見ていきます。 大見出しと小見出しが並んでいる。 大見出しはパターン4なので 「問い」として読み替えるとわかりやすい。
- 生きることの「問い」
- 「善」とは何か
- 「純粋経験」と「実在」
- 「生」と「死」を超えて
いずれもオープン・クエスチョンです。 疑問文に書き換えることができる。
- 生きるとは何か
- 「善」とは何か
- 「実在」とは何か
- 何が「生死」を超えるのか
「どう生きるのが善いか」を展開するとこの4つになる。 「生きる」を押さえ「善い」を押さえ、 その2つを結ぶ「どう」を「実在」と言い換え、 その「実在」を「生死を超えるもの」と見る。 これが大見出しのアウトラインになっています。
小見出しの基本形はパターン2です。 たとえば第2章の「「善」とは何か」には:
- 学問は「いのち」のためにする
- 「自己」の世界にふれる
- 「小なる自己」と「大なる自己」
- 我を手放す
- 「無心」の世界
- 「善」を読み解く鍵
- 仏性を生きる
- 「行為」と「意識」の関係
- 利他の哲学
- 「善」を体得するには
小見出しが10個ある。 これらは、動詞型と名詞型の2つのタイプになっています。 もちろん中身を読んでみないとわからないけれど 「宛て」をつけることはできます。
動詞型の小見出しは「〜する場合と〜しない場合」の二項対立に読み替えることができます。 たとえば「我を手放す」なら、 たぶんその箇所を読むと「我を手放す場合と手放さない場合」の比較が描かれているでしょう。 「手放すとこういうことがあるけど、手放さないとこんな困ったことがある」みたいな内容だろうか。 で、一般には後者になりがちで、筆者としては前者をオススメしたい。 そんな話だと予測できます。
名詞型の小見出しは、もし項目が2つあればその二項対立です。 「小なる自己と大なる自己」なら「小なる自己/大なる自己」の二項対立。 これは見たままになる。 「AかBか」の対比が描かれ、筆者としては後者を推したい。 これも中身を予想できます。
問題は、項目が1個だけの名詞型。 「「無心」の世界」みたいなのですね。 この小見出しはパターン2ではないかもしれない。 パターン1の「それはこういうことです」の伝達文か、 パターン3の、二項対立を止揚する意見文の可能性があります。
一つ前の小見出しがパターン2の場合はパターン3が来やすいかな。 「「無心」の世界」もたぶん 「我を手放す」の後だから「我を手放した世界」を描いていそうです。 「手放した世界」の次に「「善」を読み解く鍵」が続く。 「西田哲学の「善」とは「無心の世界」ではないか」という仮説が来るのでしょう。
目次はアウトラインを兼ねているので、 ある程度の予測がつきます。 『善の研究』を幾多郎の禅体験から読み解こうとしてますね。
本当かなあ。 「絶対矛盾的自己同一」と言い出すのは60代になってからで、 この『善の研究』はまだ40代のときの作品。 後の概念から若いときの思索を解説するのはどうなんだろう? 幾多郎を追体験できてないように感じてしまう。 うーむ。
さて、どの章から読もうか。
追記:第2章に幾多郎が親鸞を愛していたエピソードがあった。 そうそう、この時期の幾多郎は、禅よりも浄土真宗の「機法一体」っぽいのだと思う。
まとめ
とくに第3章にある「美が姿を顕すとき」が気になりました。
予測を立てて予想がつかない。 仏性とか興味ないけど「美」とは何だ? 幾多郎がそんなことを言ってる? 言ってるなら聞いてみたい。
ということで、次は第3章を読んでみます。 そして言いたい、これはキラキラだ!!
NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究: 日常で深める哲学