成田先生が亡くなられたと聞いて読み直しています。
心身症と心身医学
成田先生は大学時代、集中講義に来られて授業を受けたことがある。 静かな佇まいで淡々と話をされ、 「もし紳士という種族がいたらこういう人を指すのだろう」と思った。 それまで野卑な片田舎で育ったので「紳士」を知らなかったのである。
なので「精神分析」は紳士の嗜みで 「RORU」とか「WORU」とか異次元語を話すものだと思っていた。 後年、精神分析に詳しい若手と話すとき、 背伸びして「RORU」とか「WORU」とか使ってみたが通じなかった。 そのときの異次元語は「ラカン」になっていた。 難儀なことである。
この『心身症と心身医学』にも「RORU/WORU」は出てくる。 マスターソンという分析家が考案した用語で、 対人関係を「報酬型」と「撤退型」に分類したものだ。
報酬型とは、自分にとって望ましいことを相手がしてくれたとき、 その相手に報酬を与えることで応えるやり方である。 良い子でいてくれたから、褒めたりオヤツを与えたりする。 親子関係でよくあるパターンである。
撤退型とはその反対で、望ましくないことをしたとき、 相手への関心を撤退し、無視したりするやり方である。 仲間外れにすることで罰を与える。 こちらはイジメやパワハラでよく見かけるパターンである。
対象関係論で「良い乳房/悪い乳房」と呼ばれていたものを 「報酬型/撤退型」とすることで「二者間の相互作用」と読み替える。 対象関係論では「子どもの内的な幻想」とされていたことを、 観察可能な関係性に落とすための概念だ。 子どもだけの問題ではないし、親の問題でもない。 二人の関係として「報酬型」や「撤退型」が生じる。
これは行動療法も射程に入っている。 適切な行動には報酬を与え、不適切な行動は無視をする。 いわゆる「正の強化/負の強化」である。 親子関係で「しつけ」と呼ばれるものは、この「報酬型/撤退型」で構成されている。
心身症の成立
これの何が問題となるのか。 それは心身症の発生機序に関わる。
ネガティブな感情を表現したとき、 もし養育者が「撤退型」で応答したなら、 その感情は自己像に統合されないまま放置されるだろう。 未分化なまま留まってしまう。
心身症の人には「自分の感情を捉えるのが苦手」という特徴がある。 アレクシサイミアと呼ばれる。 何かモヤモヤしたものを感じたとしても、 目を背け無視することを学習しているので、 そのモヤモヤをあたかも「無いもの」かの如く振る舞う。
もしそうした状態で、 風邪や下痢のときは「報酬型」で応答されてきたなら、 身体症状で表現するようになる。 病気になれば関心を向けてもらえるのだから、 無意識的に体調を崩す努力を始めてしまう。 それが「心身症」である。
成田先生の独創性は「これは親子関係だけではない」とするところにある。 近代医学も積極的に心身症を生み出している。 医学の進歩とともに、患者の身体的な異常に関心を払うようになった。 血液検査やCTなどの数値をパソコンの画面で見ているばかりで、 患者の表情や思いと向き合っていない。 病院でそんな診察を繰り返している。
そのような対人関係で患者が生きづらさを訴えるには 「身体の病気」になるしかない。 「どこも異常はありません」「気の持ちようですよ」と言われれば負けである。 医者の関心が「撤退型」になる。 これが恐ろしい。
医者に関心を持ってもらうために患者は転院を重ね、 「悪いところ」を探して検査を受け、 少しでも「異常」が出るとホッとする。 医者の望むものに自らをはめ込んで安堵する。 他者の欲望の対象になろうとする欲望。
まったく異常な状況である。
発達との関連
この本は1980年代の論文集なので、 まだ発達障害という考え方は出てこない。
アレクシサイミアと、強迫性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害との類似性を指摘しているのだが、 今だとこれらは「こだわりの強さ」「対人関係の苦手さ」「共感性の欠如」などの用語で整理され、 自閉症スペクトラムとの関連が取り沙汰されるだろう。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
生得的に神経発達の問題がある。 それはそうだろうし、だから母子関係に原因があるのではない。 ただ「育てにくさ」はあっただろうと思う。 赤ん坊の感覚過敏を養育者がうまく掬い取ることができなかった。 その分、子どもから見て「撤退型」になった面もあるんじゃないだろうか。
器質因か環境か、という議論はおかしく、 器質に問題があれば環境に影響が出るし、 環境の不適合は器質の成長を妨げる。 互いに影響し合うものであり、どちらか単独では語れない。 むしろ器質因だけで納得すること自体が「自閉的」である。
発達の問題をただの「神経発達」で扱うのは心身症を助長する。 病院を訪れるとすれば「神経が発達しなくて」という悩みではない。 生きづらくて相談に来るのである。 あるいは、育てづらくて親が発達外来にやってくる。 それは「対人関係」の相談であり、治療者もそれに応える責任がある。
そのように発達を「対人関係」に組み込むと、 成田先生の言葉はどれも温かい。
「育てづらさ」から生じたズレは、 誰との対人関係でも取り戻すことができる。 学校の先生でも、職場の上司でも。 友人として、家族として。 共感された体験が少ないままで 「共感性が低い」と言われても、 そりゃあ無茶だ。
もちろん、自分自身も無理してはいけない。 ネガティブな心の動きからも目を逸らさない。 しんどかったら「今はしんどい」と言い、 休みたいときは「ちょっと休ませて」と言う。 身体からの声を無視したら、それは自分へのパワハラだろう。
身体の症状なんかなくても「つらさ」を語れる。 そういう社会が形成されれば、と願う。 まずは身近なところから、できる範囲で構わないから。
まとめ
「見えないものを扱うときは、 あたかもそれがそこにあるかのようにジェスチャーを入れるといいよ。 それで伝わることもあるから。」
集中講義でそんな話もされていて、 おかげで「動きがうるさい」と言われる喋り方をマスターしました。 それで助かったことも多い。 ありがとうございました。
新訂増補 心身症と心身医学 一精神科医の眼