3分の1ほど読みました。
言葉なんていらない?
どこで見たのだったのか、本を読むときまず「はじめに」を読み、そこで興味を惹かれたら「おわりに」を読み、間の部分は繋ぎだから好きなときに読む。 そういう読み方を推奨していたので実践してみました。
そうか、これはジャズの構成だ。
はじめにメインテーマを演奏し、それからパートごとにソロ回しをして、最後に全体でメインテーマに戻る。 スタンダード曲ならメロディーをみんなで演奏し、順番にアドリブを披露し、グルーヴィングしながらメロディーラインに復帰する。 あの感じか。
新書本を読むのもその感じで、「はじめに」と「おわりに」にはメインテーマが通っています。 もちろん「おわりに」になると、熱気のこもったビートになってるんですけどね。 身体じゅうから湯気が立ち上るような。 「はじめに」で見せたメロディーは昇華され「あの曲がこうなるのか」と揺さぶられます。
たしかに、そのあいだにあるのは「繋ぎ」です。 でも命がけの綱渡りです。 メインテーマを変奏しながらアクロバティックな宙返りを見せる。 そこを見に来ているのだから、それを飛ばしてしまうのはもったいない。
テウト神の罪状陳述
で、この本で最初にアドリブを打ち鳴らすのがプラトン。 「発話」と「書かれたもの」との二項対立を細に穿ち、「書かれたもの」の持つ罪状を並べ立てる敏腕検察官。
これは「パロールとエクリチュール」という、ポスト構造主義ではお馴染みのフレーズなのですが、まさか古田先生が出してくるとは。 ウィトゲンシュタインの古田先生と「エクリチュール」。 ちょっと接点が思いつきません。
まずは整理しましょう。 プラトンは、エジプト神話を引き合いに出します。 人類に知恵を授けるためのツールとして文字を発明したテウト神は、そのことを他の神から笑いものにされてしまう。 「文字などもたせたら人間は自分の頭で考えることを怠ってしまうだろう。そんなこともわからんのかね、お前さんはwww」。
「書かれたもの」には欠点がある。 それをプラトンは二点指摘しています。 一つは「知の外部化」、もう一つが「書かれたものの一人歩き」。 この二つは、「話されたもの」であるなら起こらない災いである、と。
古田先生によると、この二点は現代社会でこそ考えるべき言語危機です。 一つずつ見ていきましょう。
まず「知の外部化」。 わからないことがあったらネットで調べる。 そういうことですね。 自分で体験して得た知識ではなく、「書かれたもの」を復唱してさも自分の「知識」であるかのように振る舞う。
それは文字だけではない。 今は写真も動画も「外部化」できるようになったので、行ったことのない場所のことでも「ああ、あそこはね」と見てきたように話ができる。 さらになんと、どう話すかさえ生成AIで外部化できるようになりました。 テウトもびっくりです。 人間の「頭」はどうなってしまったんでしょう。
あと「書かれたものの一人歩き」。 これが「話されたもの」であるなら「話す相手」がちゃんと決まっています。 目の前にいる人に、今ここでの話をするのだから、お互い文脈がわかっている。 冗談で言っているのか、本気なのか。 それとも皮肉混じりなのかは「相手」に伝わる。 もし伝わらなくても「いやいや、そうじゃなくて」と、相手の反応を見ながら訂正することもできます。
でも「書かれたもの」だとそれができない。 文脈から切り離され、自分の意図とは違う意味で受け取られたりする。 そもそも、自分のことを知らない人間が、その人の勝手な思い込みで「書かれたもの」を解釈する。 いい迷惑ですが、そうなっても弁護するチャンスさえない。 炎上してしまうと、あとから何を言おうが言い訳にしかならない。 それが「書かれたものの一人歩き」です。
なんとまあ、現代的な問題です。 いい問題設定だな。
ポスト構造主義の頃は「書かれたもの」と言っても「ペンフレンド」くらいですから、今のインターネットが持つ他者性と比べものになりません。 プライベートな空間のすぐ隣にパブリックな空間があって、一度拡散すれば二度と回収できなくなる。 学校で「リテラシー」とか教えたところで、そんなのは「ペンフレンド」の倫理に過ぎません。
もっと巨大な亜空間が口を開けて待ってるんです。 吸い込まれたら出てこれない。 そんなブラックホールが日常に散在している。 とんでもない時代になりました。
まとめ
さて、プラトンのピアノの次が、ウィトゲンシュタインのドラム・ソロですね。 プラトンはとんでもない「穴」をあちこちに開けて丸投げですが、それを受けてウィトゲンシュタインがどう修復するのか。
それともさらに邪悪な世界へと引きずり込むのか。
言葉なんていらない?: 私と世界のあいだ (シリーズ「あいだで考える」)