昨日がドゥルーズ生誕100周年だったらしい。
手段からの解放
やっと読み終わりました。 これも「ドゥルーズ本」だったみたいです。 ドゥルーズがカントの三批判書を論じた本があってそれが底本になってる。 でも、そこで素通りされた「ただ楽しむ」を取り上げたところが國分先生の真骨頂。 面白かった。
とくに「あとがき」がよかった。 前回の推測通り、描き終わった後に重要なポイントに気づいたみたいですね。
目的によって駆り立てられ、何もかも手段と見なす生とは、もはや主体が存在せず、経験する能力そのものを奪われた生ではなかろうか。
この一文に集約されていると思いました。
「健康のため」「豊かな老後のため」「家族のため」、あと何でもいいや、何かのためという「目的」に合わせて「今このとき」を「手段」としてしまう社会。 それはアーレントによって全体主義社会の特徴とされました。 でも、翻ってみると、今の日本社会も同じパターンの言説が蔓延ってます。 これはなんでしょう?
國分先生は「資本主義」にその原因を求めているけど、そこがよくわからんのです。 たしかに、人々を「消費者」として育て上げ、無意味な消費活動をするように誘導しているかもしれません。 ナッジとかの話なんだけど、なんで人々はそんな易々と「消費者」になってしまうんでしょう? しかも、資本主義は昔からあったじゃないですか。 なのに、最近その側面が加速しているのはなぜでしょう?
どうも、今回そこまで踏み込んでませんでした。 警鐘を鳴らして終わり、って感じ。
時給の発生
そもそも一般大衆に「主体」が存在した時代なんてあるんだろうか。
第二次大戦でも無邪気に「日の丸」を振っていたのが大衆じゃないか。 「人に主体があった時代がある」はインテリの考える「夢の世界」であって、この地上にそんな時代は一度もなかった。 そう思うんですよね。
それでも、そんな大衆でも畑仕事のあとで畦道に腰を下ろし、タバコを「ただ楽しむ」はできていた。 日が暮れて、囲炉裏端の周りに集まり、薄いお茶を「ただ楽しむ」ができていた。 そういう、無駄な、でも大切な時間を過ごす生活をしていた。 血糖値とか気にせず、受動喫煙なんて考えず。 これは何だろうか。
ミヒャエル・エンデの「モモ」を思い浮かべます。 あの物語に現れる「時間銀行」は「ただ楽しむ」を敵視していた。 あの感じが、今の「資本主義」にはあるんですよね。 「無駄な時間」が空くことを恐れる。 タイパにしても、スキマバイトにしても。 國分先生の危機感も同じところから発しているように思います。
「時給」という発想がポイントかな。 何に由来するのだろう。 「新約聖書」に、果樹園の手伝いをした人に報酬を払う話がありましたね。 雇い主は、朝から働いた人にも、昼から半日だけ働いた人にも、同じ報酬を渡す。 それに対して、朝から働いた人が不平を言うと、イエスが「同額なのが正しい」と裁定するエピソード。
古くからの信者にも、新参者にも、神は等しい愛を注ぐという理由だけど、いや、不平を言う人がいたと言うことは「時給」という発想がすでにあるなあ。 「時間」を売る。 「時は金なり」だな。 「時間が足りない」「時間を費やす」。 時間には金銭のメタファーが使われます。
だから、発想としては古くからあって、そこに「時計」という発明が加わったとき「時給」が生まれるわけです。 「時間」がオブジェクト化され、測定可能と想定され、そして「何をしたか」ではなく「何時間そこにいたか」で対価が支払われる。
これは農業社会では出てこない。 工場労働でも、それは出てこないなあ。 「一つ靴を仕上げたらいくら」が工業の価値基準だろう。 となると「時給」が生まれるのは、商店の「店番」とか「警備員」とかだろうか。 人を場所に拘束するタイプの労働。
オイコス
もともと「家」が経済単位でした。 会社だった。 古代ギリシアの「家(oikos)」は、それぞれ葡萄園を経営していたり、大工を営んだり、サンダルを編んだりしていた。 生産を担う経済共同体(oikonomia)だった。 それが経済(economy)の語源です。
事情は日本でも変わりません。 「家に嫁ぐ」ということは、その家の生業に就職することでした。 農業だったら、そこの農業労働者になることだし、商家なら女将さん見習いになることです。 家族とは、まずは生産者集団だった。
これが戦後、高度成長期に都市部に人が集まり、核家族を形成するようになった。 核家族になって専業主婦という新しい「職業」が生まれる。 そのときでも「家」は料理を作り、裁縫で服を自給自足する生産拠点です。 やはり、一つの「会社」なのです。
ところがいつからか、食事を外注し、服をお店で買うことが「当たり前」になっていきます。 つまり、資本主義が「家」に目をつけ、その生産能力を奪い取ることで、より効率よく経済が発展する方法を見つけてしまう。
しかも、初めは「家」に一つあればよかったもの、たとえば自動車とかテレビとか、電話などを、個人それぞれに買わせることに成功する。 「家」が解体すればするほど、内需が拡大する仕組みが確立します。 バブルの頃ですね。 これがデフォルトになる。
もし日本に「主体」があったとすればこの頃です。 「家」が崩壊し「個人」が顕になった。 「主体」が問われるのは、「家」を出て「外」に職場を求めるようになったため。 就職面接で「自己アピール」しなければならなくなった。 「あなたは誰ですか」と尋ねられなければ「主体」など生まれません。
まとめ
しまったなあ、長くなった。 しかも「資本主義は、次に個人を解体することに着手した」になりそうだわ。 分人主義とか、そこで生き残るライフハックだもの。
これはブログの手に余ります。
手段からの解放:シリーズ哲学講話 (新潮新書 1072)