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思考の自転と公転としてのヘーゲル

ここのところ考えながら「こうかなあ」と思い浮かんだので。

ヘーゲル再入門

前回、川瀬先生の「流動性」を「循環性」や「双方向性」に分けましたが、これが自分でも引っかかっていて、別の読み筋はないものかと考えました。 うまく行けば、地動説をアレゴリーに使えそうに思ったんだけど。 まだ荒削り。

要するに2通りの流動性がある。 それを「自転」と「公転」と捉えるやり方です。 「双方向性」を「自転」、「循環性」を「公転」と見たら、読みやすくならないか、と。

自転と公転

「自転」は「感性 vs 悟性」や「目標 vs 行為」で論じられていた部分です。 夜があって昼が来て、昼が過ぎて夜が来る。 この流動性

ここに出てくる二項対立が「弁証法」と言われてきたわけだけど、川瀬先生は「ヘーゲル弁証法なんて言ってないよ」と言ってるわけで、この昼夜が入れ替わる様子が第一レイヤーの「流動性」なわけです。 自転しながら動いている。

この二項対立に使われる項目は「からだ vs あたま」じゃないかと思いました。 意識が「からだ」の視点から見れば「感性」になるし、「からだ」から外界に働きかければ「行為」になる。 これが「あたま」の視点から見れば「悟性」として働くし、「あたま」でシミュレートすれば「目標」になる。 そういう関係じゃないだろうか。

しかも「意識」と呼ぶからわかりにくいのであって、「思考」とすればプロセスであるのは明瞭です。 「からだ」と「あたま」が対話している。 その対話が「思考」です。

たぶんヘーゲル流動性を重視するのは、この「からだとあたまの対話」があるからですね。 このこと自体が「自由」である。 意識が進展した先の遠い未来に「自由」があるのではない。 流動するなら、そのとき「自由」なんです。

もし「からだ」か「あたま」のどちらかで固着すれば「不自由」。 身動き取れない。 でも、またプロセスが流れ始めれば「自由」。 それが哲学の効能である。 自転のプロセスが動いているから。 そんな捉え方じゃないかと思いました。

「自転」が「昼夜」であれば「公転」は「春夏秋冬」に当たります。 こちらは第二レイヤー。 「四季」という循環性になる。 ヘーゲルが「つぼみが花となり、花が果実となり」はこの循環性でしょう。 前回、何かこちらにも双方向性があると解釈してしまいましたが、勇足だったかもしれません。 これは「つぼみ→花→果実→種子」の一方通行でも構いません。 「春→夏→秋→冬→春」のアレゴリーで見ればいいわけなので。

ヘーゲルが実際に何を考えていたかは「精神現象学」の中身ですね。 彼は「意識→自己意識→理性→精神→絶対知」という展開を記述しています。 こちらが「公転」。 つぼみが花になるように、意識が自己意識となり、理性へと展開していく。 脱皮しながら、より大きな他者へと開かれていきます。

先ほどの「感性⇔悟性」は「意識」の段階での自転です。 「目標⇔行為」は「理性」での自転。 それぞれの段階(契機)において「からだ⇔あたま」の対話が起こっている。 「精神現象学」を読み替えると、そんな自転と公転の関係になりそうです。

まとめ

ヘーゲル(再)入門 (集英社新書)

川瀬和也

もし以上の読みだとしたら、じゃあ「絶対知→意識」という矢印があるのだろうか。 そうじゃないと「循環性」と呼べないけど、ヘーゲルはむしろ「絶対知」を双六の「アガリ」と見てるよなあ。 だから「これはジンテーゼでしょ?」と思われたわけだし。

そこがわからない。




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