また新しい本を買ってしまった。
気になる本があるとKindleでダウンロードしたり、本屋で衝動買いしてしまう。 それでいて、年齢とともに読むスピードが落ちている。 なかなかページが進みません。 理解力が摩耗してきたなあ。 すり減ってきました。
結果として、読みかけが増えるばかりで、読み終わった本が減っている。
旅としての読書
そんなわけで、自分を正当化しておこう。 逆に考えるんだ、読みかけでもいいさ、と。
だいたい、これが「旅行」であれば「未読」とは思わないでしょう。 たとえば京都を旅し、渡月橋を渡ったり三年坂で転んだりしたとして「でもまだ鞍馬山を登っていない」とは思わない。 訪ねてない場所があっても「まだ京都には行ってなくて」とはなりません。 落ち込むことはない。
たとえ聖護院で八つ橋しか食べてなくても「京都に行った」なのです。 つまり、そういうこと。 ちょっとでも足を踏み入れ、そこの空気を吸ったのなら「訪れた」と言っていい。 旅行であればそう思います。
これを読書に応用すると「『はじめに』しか読んでないけど、その本は読んだ」と見なせるんじゃないだろうか。 一部しか見てなくても、その本に触れたという事実は大きい。 そもそも「一部しか見てない」と思うのは「全部」を見てしまうからですよね。 「全部読むのが正しい」と思い込むから「まだ読んでいない」と卑下してしまう。
でも、全部読まないといけないものなのだろうか。
フラクタル構造
本に物理的な「厚さ」があるので、その「厚さ」を基準に読書を「測って」しまう。 読書メーターに意味なんかあるんだろうか。 この「厚さ」は虚構ではないでしょうか。
思考実験してみましょう。 もしその本が章立てごとに分冊で発行されるとしたら。 第一章で一冊、第二章も一冊。 全体で八冊になっているディアゴスティーニだとしたら、全巻買ったりするだろうか。 そういう実験ですね。
いやあ、全部買わなくても満足しますよ。 初回限定割引価格のランボルギーニ・カウンタックでも、付録のミニカーを組み立てて棚に置いたりする。 「やっぱ、スーパーカー、かっこええ」と思う。 十分「買った甲斐があった」と満足します。 あと、ポルシェの回があったら見てみようかな、とか。
全部揃える必要はない。 それは「フラクタル構造」だからです。
全体を通して味わえる楽しみを、その1回だけでも味わえる。 部分の中に「全体のエッセンス」が詰まっています。 細部に魂は宿る。 魂はメーターで表せません。
読書も同じで、一部分にも「エッセンス」は宿っています。 「吾輩は猫である。まだ名はない」だけで漱石らしさはあるし「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」で芭蕉の人となりを知ることができる。
第一章で心踊らない本は第二章になっても心踊りません。 常套句しか使えない文筆家はどこまでも常套句の羅列になっている。 もちろん、それでも「常套句を楽しむ」という娯楽はあるけど、こちらの考えが揺さぶられることはありません。
それに対し、第1話が面白いアニメは通しでも面白い。 一部は全体を表している。
自己責任論
今回途中で止まったのは『貧困と脳』。 いい本です。
ルポライターの鈴木大介さんが、自ら高次脳機能障害になって「不自由な脳」を体験することになった。 脳がとても疲れやすい。 作業記憶を維持するのが難しく、ちょっとした刺激で混乱してしまう。
この体験をもとに、それまで取材してきた精神障害者や発達障害の人たちの「苦労」を共感的に再解釈している本です。 自分が脳梗塞になるまで、そうした障害ある人たちがどこか「自業自得」のように思っていた。 彼らが貧困の底辺にいるのも、やるべきことから目を逸らし、変にプライドが高く行政的な支援を受けない「破滅的なパーソナリティ」に起因するのだと思っていた。 要するに「自己責任」だと思っていた。
実際に脳機能障害が起きてみて、外から見ていた「こうすればいいのに」は当人には不可能な要求だと気づく。 個人の努力を超えている。
脳の疲労は身体の疲労とは別物です。 ある日、何かの拍子にスイッチが入り、それまでできていたことが全くできなくなる。 急に脳の中が濁ってしまい、周囲の状況が見えなくなる。 「まるで、透明な紅茶にミルクを注いだように」と喩えています。
これは「自己責任」なのだろうか。
と同時に「自己責任って言葉、子どもの頃に聞かなかったなあ」と思い、調べてみました。 すると、どうも本来は企業経営で会社を主体に使われていたらしい。
バブル崩壊のときに倒産する会社に対し、政府が「自己責任で」と支援を渋り、さらに阪神・淡路大震災のとき、被災した個人に対しても「自己責任で」と救済しなかった。 そうした歴史があることを知りました。 おいおい、やっぱり自民党かよ。
とそこから、興味が「朱子学」に移り、その関連の本を読んでいます。
東洋において儒教の影響が大きいと思っていたけど、もしかしたら近代の産物なのではないか。 中国でも、異民族に支配された宋代になるまで儒教が顧みられることはなかった。 日本も朱子学が普及するのは、欧米からの脅威が増した幕末の佐久間象山あたりじゃないか。 外敵からの圧力を感じることで「自己責任」が発見され「修身」や「克己」が美徳とされる。 そんな仮説が湧いてきて、ああ、未読が増えていく。
ほんと、困ったなあ。
まとめ
読みたい本は多いのに人生は短い。
貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」 (幻冬舎新書 751)