どこかに向かっているらしい。
サブジェクト
前回サブジェクトは「下に投げられているもの」だと押さえました。 「基体」というアリストテレスの概念。 ずっと「実体」や「本質」を表す言葉だと思っていたけど、違うかもしれません。 むしろゲシュタルトでいう「地」ではないだろうか。
オブジェクトが前面に出ている。 「図」として意識されるわけです。 でも、オブジェクトを「図」と見るには、その背景に「地」がなければならない。 カードを広げるテーブルがある。 このテーブルが「サブジェクト」ではないかと思い当たりました。
「主語が大きい」みたいな言い方がありますが、サブジェクトは大きいわけです。 とても広い。 それがテーブルになって、そこに述語が属性として置かれている。 「馬が走る」であれば、「馬」というテーブルに「走る」という状態が置かれている。
その場としてある
もし「走る」を取り去ったとしても、つまり立ち止まったとしても、「馬」が消えるわけではありません。 「馬」は変わらずにその場としてある。 これがアリストテレスの文法感覚であり、今も哲学に流れる認知形式なのかもしれません。
「場」として主語が存在している。 ハイデガーなら「Da-sein」と呼ぶでしょう。 「その場としてある」。 それがなぜ「主体」を表す表現となるのだろうか。
この街には駅がある This town has the station。 日本語なら「場」として表現するところを欧米語では主語として立てます。 この感覚には「主語は場である」が埋め込まれている。 ちょっと不思議なのだけど、主語は決して個体ではない。 むしろ、その場を表すものとして立ち現れています。
オブジェクト指向で考えてみると、センテンスを「カード」と見立てるとき、その背景に「テーブル」がある。 「余白」が隠れている。 その部分が基体というわけです。
コーラ
デリダなら「コーラ」と呼ぶかもしれない。 神がこの世界を作ったとき、その材料としたものが「コーラ」です。
世界より先に「何か」があった。 その「何か」は神が作ったわけじゃないから、創造神より先に創造されていたわけで、矛盾が生じる。 でも、やっぱり「何か」はあるわけです。 それが「コーラ」。
文章を書く前に「何か書きたいこと」がある。 それがどんなことかは書いてみないとわからない。 「何か」あるけど「何かある」という感覚しかない。
サブジェクトをオブジェクトに変えていく。 オブジェクト化すると、かえって言葉にできないものが露わになります。 言い足りない。 そこが「サブジェクト=案件」として浮き彫りになってくる。
俳句のように
ここまで書いてきて「謎」が見えてきました。 センテンスを支える「余白」がある。 カードを繋ぐ「片栗粉」があるわけです。
カード自体はそれぞれ切れています。 バラバラの物体としてある。 でも、カードを並べると「行間」を読んでしまう。 新しいカードを作ると、さらに「行間」が生じる。 このプロセスにサブジェクトが隠れている。
これは何か。 どう扱えばいいのか。
とりあえず思いつくのは「行間」を増やすことかな。 まったく手軽な対応策だけど。
箇条書きに書く。 それも「。」だけでなく「、」でも改行する。 できれば俳句みたいに句読点がなくても改行する。
行間が増えるとポキっと割れ目ができて「溶岩」が噴き出してくる。 漏れ出た「溶岩」が冷えて固まれば、それが「オブジェクト」となるわけです。 そうやってサブジェクトをオブジェクトに変換していく。
まとめ
マークダウンは「行間ドリブン」な書き方に向いています。 あとで改行が消えるわけだから。
その代わり、だんだん収拾がつかなくなる(w。
コーラ: プラトンの場 (ポイエーシス叢書 52) 単行本 – 2004/4/30