1944年(昭和19年)0歳
7.14 埼玉県浦和市で誕生。両親は疎開中で、父は国鉄と東芝に勤務していた。姉が3人の末っ子であった。
1945年(昭和20年)1歳
戦争が終わり、家族が東京都品川区北品川に移転。
1950年(昭和25年)6歳
品川区立城南第二小学校入学。
1956年(昭和31年)12歳
1959年(昭和34年)15歳
東京都立大学附属高等学校(後の東京都立桜修館中等教育学校後期課程)入学。
1962年(昭和37年)18歳
大学では演劇サークル「劇団木霊」に所属し演劇に熱中した。大学時代の演劇部の仲間に長塚京三や田中真紀子がいる。
1967年(昭和42年)23歳
4月 TBSにアナウンサー12期生として入社。
11.15 アナウンサー研修室設置に伴い、同室付兼ラジオ局第一制作部勤務。
入社直後、激務と極度のあがり症から体調を崩し、結核を患う。
まず入社3ヶ月目頃から、通勤電車に乗ると気持ち悪くなってしまって。電車のドアが閉まる音で嘔吐しそうになるんです。1駅乗ったら降りて、ホームのベンチで休んで少し落ち着いたら、また1駅乗る。シャクトリムシのようにノロノロ移動するから、通勤にとても時間がかかってしまいました。
それから「気持ち悪くなるのは、朝ごはんを食べるからだ」と思い、朝食を抜くようにしたんです。それでも体調が戻らないから、昼も食べなくなって。「吐き気が収まってきた」と思ったら今度は、恐らく栄養失調でしょう、結核にかかってしまいました。
当然人前で話すアナウンサーの仕事はできず、電話番の仕事ばかり。当時は、「人生終わった」と思っていました。今、思い出すだけでも胃が痛くなります。
1969年(昭和44年)24歳
モデルでスタイリストの麗子と結婚。後には宏のスタイリストを務めるようになる。

1970年(昭和45年)26歳
4月 ラジオ番組『パックインミュージック』金曜パーソナリティに抜擢。病気により5週で降板する。
5月 この月からスタートした『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』の中継リポーターを務める。体当たりなレポートや永六輔との当意即妙な掛け合いが話題を呼ぶ。
(『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』で行ったヌード中継について)
いまではさまざま観点からあり得ない企画でしょうが、乃木坂にある写真屋さんのスタジオを借りて、床に絨毯を敷いて、そこにタオル1枚だけをまとったモデルさんに横たわってもらって。そのタオルをバッと捲る様子を中継したんです。このとき僕は、「本当に全裸であることを伝えるために、お尻を叩きたい」と言ったのですが、担当ディレクターから「それをやると、品が悪くなる」と言われました。随分議論しましたが、僕が折れることになりました(笑)。
言葉だけで説明しようと考えた結果、本番中に「全体的に色白の肌です。お尻だけが更に白い。そのお尻に、3つ“あせも”ができている」と話したんですよ。あとから録音を聞いたら、それが正解だったなと思いましたね。もし僕の提案通りにしていたら、彼の言う通り品がなく、リスナーは興ざめしたはず。
1975年(昭和50年)31歳
10月 『料理天国』レギュラー。(~1980年)
10.7 この日より放送の『ぴったし カン・カン』の司会を務める。この番組を企画した萩本欽一が、ラジオの仕事をしていた久米を見てテレビ向きだと感じて起用したという。番組は全国的な人気を博し、1984年5月まで続く。
生放送の魅力に取り憑かれたのは、『ぴったしカン・カン』の影響が大きいですね。
『ぴったしカン・カン』では、生放送と収録を交互に行っていました。でも、企画・構成を務める萩本欽一さんのこだわりで、録画の編集は一切しなかった。とにかく「生」を貫いたんです。そこで生まれる失敗や緊張感が、すごく面白いんですよ。
1978年(昭和53年)34歳
1.19 この月より開始の『ザ・ベストテン』司会を黒柳徹子と務める。 1984年5月に同番組を降板するまで日本の歌番組の代表的な存在となり数々の伝説的な場面を生む。
新幹線中継は「ベストテンの名物」でしたね。中森明菜さんに新幹線の車内で『十戒』を歌ってもらったこともありました。あのとき、明菜さんに出演交渉したら、「その時間は新幹線で移動中だ」と言うので、車内で歌わせてもらえるよう国鉄に許可を取ったんです。
飛行機から登場してもらったのは、松田聖子さん。タラップから降りてくる場面を登場シーンにしたかったのですが、想定よりも早く飛行機が到着しそうだったので、機長に誘導路をゆっくり走ってもらって、時間を稼ぎました。どちらも、今のテレビでは考えられない演出です。
4月 『土曜ワイドラジオTOKYO』パーソナリティ。毎週土曜日生放送の最長8時間の大型ワイド番組。(~1985年3月30日)
1979年(昭和54年)35歳
6月 TBSを退社。以降、民放各テレビ局を中心に活躍。その時点で担当していたTBSの番組はフリーアナウンサーとして出演を続ける。
1980年(昭和55年)36歳
4月 日本テレビの『おしゃれ』司会。
1981年(昭和56年)37歳
8.16 愛人女性(29歳)が久米に妻との離婚を迫り、睡眠薬を飲んで手首を切る事件を起こし、3週間にわたり番組出演を謹慎。
1982年(昭和57年)38歳
10月 日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』司会。(~1985年)トラブルメーカーとして知られる横山やすしと共演。横山が芸人を引退することを決めたのはこの番組で久米にトークで負けたと感じたからだとの話もある。
やすしさんは生放送で言っちゃいけないことを言う。番組の途中でトイレに立ち、そのまま戻ってこないこともある。そもそも、スタジオに現れない日もある。そんな破天荒な人と一緒に番組をしていたから、怖いもの知らずにはなりました。
それに、これまでの人生で、やすしさんと飲んだ日以上に怖い思いをした日はないんです。やすしさんは酔っ払うと、顔が青くなる人なのです。青くなった彼が、「何こっち見とんねん?」と周りの客に絡むんですよ。しかも、わざわざ血の気の多そうな人を選ぶ。それを7、8軒繰り返すんです。「このままでは、やすしさんが誰かに殺されてしまう」と怖くなりました。
後日、やすしさんが所属していた吉本興業の方にその話をしたら、「よく一緒に行きましたね。今の大阪で、あの人と飲む人なんていないですよ」と言われて。先に教えてくれと思いましたよ(笑)。
1985年(昭和60年)41歳
10.7 テレビ朝日『ニュースステーション』メインキャスター。(~2004年)他の番組のレギュラーは降りてこの番組一本に専念する。平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組は大胆な試みであり、単なる原稿読みにとどまらず、久米などの出演者がアドリブで「個人的感想や意見」を言うことは当時珍しく、奔放な司会ぶりが民放の報道番組に変革をもたらす。
サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を合わせた三人体制がメイン。
僕がはっきりとした物言いをしていたこともあって、番組宛に苦情の電話が来るのは日常茶飯事でした。テレビ局や事務所に「殺してやる」と書かれた脅迫状が届いたり、自宅の玄関前に動物の死骸を捨てられたりしたこともあります。
1987年には、朝日新聞阪神支局が襲撃されて、報道記者2名が殺傷される事件が起こりました。当時、事件の報道を見ながら「自分もいつ殺されてもおかしくない」と思っていました。
12月 日航機墜落事故の特集でスタジオに犠牲者と同じ520人分の靴を並べる。
1986年(昭和61年)42歳
4月 『ニュースステーション』が開始当初の観客を入れての公開形式から全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアル。
7月 選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタート。7月6日に行われた第38回衆議院議員総選挙は衆参同日選挙となり、自民党(総裁中曽根康弘)は安定多数を大きく超え、当時戦後最多となる300議席(その後、追加公認4名)を獲得する圧勝を収めた。
1993年(平成5年)49歳
7.18 第40回衆議院選挙で自民党と社会党の対立構造からなる「55年体制」が終焉。
8.9 非自民の細川連立内閣が発足。サンデープロジェクトの田原総一朗とニュースステーションの久米宏が非自民連立政権を作ったとして作家の堺屋太一は「久米・田原連立政権」と呼んだ。
9.21 テレビ朝日の取締役報道局長であった椿貞良が「『ニュースステーション』に圧力をかけ続けてきた自民党守旧派は許せない」と語り、いわゆる「椿発言」が問題となる。
1996年(平成8年)52歳
10月 『ニュースステーション』でのインドのルポの中で、インド人がよどみない日本語で話をする映像を見て「しかし、外人の日本語は片言の方がいいよね」と発言、直後から有道出人の猛烈な抗議を受ける。
10.20 第41回衆議院総選挙は59.65%と いう史上最低の投票率の下で自民党が239議席を獲得し復調。このときの報道を93年の選挙と比較して、研究者の河野武司は「全体のニュース報道に占める総選挙に関するニュースの量的位置付けは93年と96年とではほとんど変わらないが、その提供された情報の内容と方向性に関してはかなりの差が見受けられる」とし、「一口で言うならば、93年においては自民対非自民ないしは既成政党対新党の枠組みでの中で、非自民の方向を強調する報道が行われ、そのような時局の流れに見合うような内容の情報が提供された」のに対し、「96年においてはそのような二分法的な提示ではなく、行政改革に対する各党の取り組みを中心とした政策による選択のための材料の提供を主眼とした報道になった」と分析している。
1999年(平成11年)55歳
2.1 『ニュースステーション』のダイオキシン問題特集で誤報。その後批判に対して開き直ったかのような発言をしたためにさらに批判を高める。
9月 農家側が風評被害を受けたとしてテレビ朝日に損害賠償請求の集団訴訟を起こす。
10.6 気力、体力の問題により『ニュースステーション』降板を宣言。
2000年(平成12年)56歳
1.4 『ニュースステーション』に復帰、ヒゲ姿で登場。
2003年(平成15年)59歳
8.5 「十二分にやった」「スタミナ切れ」「2004年3月までの契約」を理由に、正式に『ニュースステーション』降板を発表。
2004年(平成16年)60歳
3.26 『ニュースステーション』放送最終日。これがテレビ朝日での最後の出演となる。最後に久米はこう述べた。
「民間放送は原則として戦後にすべて生まれました。日本の民間放送、民放は戦争を知りません。国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が民間放送にはありません。これからもそういうことが無いことを祈っております。」
6.16 テレビ朝日が「ダイオキシン問題」で風評被害を受けた農家側に謝罪。1000万円で和解となる。
9.20 半年間の休養後、ニッポン放送 1日ジャック『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』で復帰。
2005年(平成17年)61歳
4.17 日本テレビの日曜20時枠で、1年ぶりのテレビ復帰となるレギュラー番組『A』がスタート。低視聴率により、6月19日、2か月で打ち切りとなる。
2006年(平成18年)62歳
10月 TBS『久米宏 ラジオなんですけど』でパーソナリティを務める。21年ぶりのTBSの番組への復帰となった。(~2020年6月27日)
2011年(平成23年)67歳
3.18 東日本大震災発生により創設された朝日新聞社と朝日新聞厚生文化事業団による「東日本大震災救援募金」に個人名義で2億円を寄付。
2017年(平成29年)73歳
9月 初の書き下ろし自叙伝『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』を世界文化社より刊行。

2021年(令和3年)77歳
5.30 インターネット動画番組『Kume*Net(クメネット)』(194本目)で活動休止宣言。
6.10 『週刊ポスト』への寄稿記事で「ドクターストップにより禁煙した」と書く。

2023年(令和5年)79歳
10月 『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』が朝日文庫で文庫化。
11月 文春オンラインにインタビュー記事掲載。
2026年(令和8年)
1.1 肺癌のため死去。享年81。
1.13 所属事務所「オフィス・トゥー・ワン」の公式サイトで訃報が発表された。
妻の麗子がコメントを発表。
久米は、最後まで“らしさ”を通したと思います。
大好きなサイダーを一気に飲んだあと、旅立ちました。
まるでニュースステーションの最終回でビールを飲みほしたあの時のように。
自由な表現者として駆け抜けた日々に悔いはなかったと思います。
常に新しいことに挑み、純粋な心で世の中の疑問を見つめる人でした。
彼は若いスタッフが大好きでした。
楽しそうに他愛もない冗談を交わし合うひと時は、かけがえのない時間だったに違いありません。
そして何よりも、多くの皆さまに向けて自分の思いを偽らずに発信できることが、彼の最大のモチベーションでした。
本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
久米 麗子


