この本の感想の中でぼくは何度も「今は『戦前』である」と書いているが、漠然とそのように感じているだけで、具体的に戦争がどうやって起こるのかをイメージできない。
具体的にイメージすることを回避しているのかもしれないとも思う。
日本で民族対立が激化してユーゴ内戦やルワンダ内戦のようになることは想像し難いし、今の日本が積極的に海外に軍事侵略するというのも考えにくい。
東浩紀の紀行文の中でもっともイメージに近いのは戦時下のウクライナだろうか。
キエフでは一日に何度も空襲警報が鳴らされるが、市民の反応は落ち着いていて、危険がないと判断すれば無視するようだ。
全くレベルは違うが、日本でもけっこうな頻度で発せられる北朝鮮からミサイルが発射されたとの警報に対する反応にも似たものがあるように思う。
また話は違うがこれほどの頻度で強い地震が起こる国というのも珍しいだろう。大震災がかなりの確度で起こることが予測されているにもかかわらず日常はまったく変わることなく続いている。
日常の力(慣性力)というのは強力なものだ。戦争が起こっても、日々の暮らしは続いていく。毎日食事はしなければならないし、眠らなければならないし、日々の糧を得るために活動しないといけない。
村上龍の小説を読むことは想像力の鍛錬になるだろうか。しかしあれはバブル期に書かれたものだから、どこかイケイケ感があって今のダウナーな時代には適用できない気がする。最近では砂川文次あたりの方がリアリティがあるかもしれない。
ぼくが子供の頃に恐れていたような「核戦争による人類全滅」みたいなイメージよりも今ではウクライナ戦争のような地上戦プラス局所爆撃という古典的な戦争の方がリアリティがある。
911の後は世界中の先進国でテロが頻発するのではないかと思われ、現に様々な場所で銃乱射事件や爆弾事件などは起こっているが、当時想像していたほどの規模では起こっていない。特に日本では起こっていない。
90年代には「革命や戦争のような『デカいやつ』はもう来ないから、終わりなき日常を生きろ」みたいなことが言われていた。
2000年にNAMを始めたころの柄谷行人はもうすぐ経済破局が起こるようなことを言っていたが、それも起きていない。
だから結局のところ「デカいやつ」はこれからも来ないような気もする。「デカいやつ」は来ないが、そこそこのやつは来て、それが繰り返し起こって、ボディーブローのように全体的にボロボロになっていくのかもしれない。
もちろん自然災害もそれに含まれる。もともと日本人は戦争も自然災害みたいなものと考えているフシがある。
2025年の紅白歌合戦を横目でチラ見しながらそんなことを考えていた。
