平和は考えないことと関係しているだけでない。きっと忘れることとも関係している。ぼくたちは、なにも考えず、すべてを忘れているときに、 おそらくはもっとも平和を感じることができる。
東浩紀『平和と愚かさ』より
で、幸せなものっていうのは文章に向いてないと思うのよ、自分の中で。文章自体に。本当に幸せなものっていうのは言語化出来ないと思ってるから。仕事は辛いもの。自我が存在するから辛いことなの。幸せな状態って自我が消えてる状態、僕の中で。自分も何もない感じなんですよ、僕の中で幸せって。だから、残念ながらそれを文字には出来ないっていう風に思ってるのね。
中原昌也 【プリミ恥部の宇宙おしゃべり】 Vol.2より
平和は思考不可能なもので記憶不可能なものであると東浩紀は書いている。
「私たちは今平和な社会にいる」と考えたとたん、もはや平和な社会ではなくなっている。なぜならそれは常に「じつは平和ではない」という無数の反論によって訂正される可能性があるからだ。
同じことは「幸福」にも言えるのではないか。
中原昌也の言うとおり、本当に幸せなものは言語化できない。本当に幸せな状態というのは、「自我が消えている状態」であり、「僕は今幸せだ」などという思考が何もない状態のことである。
同様に、「私たちはいま平和だ」ということを絶えず皆で確認しなければならない社会というのは、常に争いの種を宿している。地面の下には不穏さが渦巻いている。
本当に平和な状態とは、平和だということを誰も意識しない状態、戦争のことを何も考えずにすむ状態のことだ。
だがそれは言語化できないし記憶もできない。「かつてそんな時代があった」と語ったとたん、それは「嘘」になってしまう。
日本の戦後80年は「平和な時代だった」と言語化したとたん、いやそれは第三世界の貧困や戦争の上に成り立った「偽りの平和」でしかなかったとか、暴力的な家父長制度による社会的差別と不平等の表現でしかなかったなど、いくらでも「訂正」を受けることになる。
つまり平和というのは、幸福と同じで、それについて語ったり記憶したり思考したりできるものではない。本当に幸福な人は、「今自分は幸福だ」とは言わない。本当に平和な社会は、平和について論じる必要がない。
今までいろいろ読んだ中で、「政治」というものについては小林秀雄の次の言葉が一番腑に落ちた記憶がある。
民主主義というのは、政治的にも哲学的にもいろんなふうに考えられるな。だけど、 現在使われている民主主義の思想というのは、まあ平等思想だ。政治的に平等だということですね。
民主主義という思想で、人生の問題は全然な片付かないよな。それはまた別の問題じゃないか。そういうふうに考えればいいので、民主主義を人生観と間違えるのは一番いけないね。 ただ、民主主義の政体というものはある。これは厳としてあります。民主主義的な制度というものは、封建主義的制度よりいいじゃないですか。これは争うことができないじゃないか。
歴史はそういうふうになっていったんでしょう?で、現実としてそういう政体をうまく運用できて、僕たちがうまく生活していければいい。僕はそれだけでいいんで、民主主義というものが一体この日本を救うのか、人間を救うのか、幸福にするのかなんで、そういうふうに僕は考えたことなんか一度だってない。
どうして民主主義なんていう言葉を、そんなに君、大事な大きな言葉と考えるのかな。僕は何主義でもいいと思うんだよ。政治というものは、目的を達すればいいのだ。目的って何だ? 僕らの幸福じゃないか。それを達すればいいじゃないか。僕は政治というものをそんなふうに考えています。
政治には正しい思想なんてないです。学問には正しいことと正しくないことがあります。だけど、政治にはない。政治というのは事業ですよ。僕たちみんなで社会を作って平和に、 立派に生きていく、そういう方法じゃないですか。共産主義のほうがよければ共産主義にすればいいのです。僕はそう言うな。何々主義にするとかしないとかって、技術的問題にすぎないでしょ?
民主主義で一体僕らはいいのかなんて問題、僕はよく聞かれるのだけれども、どうしてそんなふうに問題を出しますかな。そういう問題の出し方をまず、よさなきゃ駄目ですな。もしも君が政治に強い興味を持って、君の目的が政治にあるならば、政治をやらなきゃいけない。そのためには、まず政治というものの性質をよく知らなきゃいけない。
僕は政治に対する自分の考え方々に書いたこともありますが、政治について今言ったように考えています。政治的に物を考えることは、一つの風習です。こんな風習とは僕は戦わなくてはならないと考えています。だから、僕の思想は反政治的です。
小林秀雄『学生との対話』より
小林は戦後に「偉い人たちはたんと反省すればいいじゃないか(僕は反省なんかしない)」と開き直ったことで反発を買ったが、上の発言と一貫しているように思う。
つまり小林にとって政治というのはみんなが平和に生きていくための事業であり、政治思想というのは技術的問題に過ぎない。
「政治的に物を考えることは、一つの風習です。こんな風習とは僕は戦わなくてはならないと考えています。だから、僕の思想は反政治的です」という小林の発言は、東浩紀の平和についての話にもつながっているかもしれないと思った。
この小林の発言にはさらに続きがある。
質問した学生は小林の答えに納得できず、「先生みたいに、こうではない、ああでもないと批判されるだけですと、僕は非常に解釈に苦しみます」と食い下がる。
「無論、民主主義体制の中で批判勢力は必要だと思いますけれども、やはり私たちは、何が正義であり、何が真実であるか、しっかりと先生からお聞きしたいのです。何も先生からお聞きした言葉が全面的に私の考え方になるというのではなく、さまざまな書物を書いてこられ、きちんと誇りを持っておられる先生の言を伺いたいのです。」
これに対する小林の答え。
それは僕の本を読んでください。僕は何かについて、こういうことが正しいなんて言ったことはない。こういうものが正しいなどと言う自信がない。僕は、自分の経験したことを通じて、こうだと思うことを書いているのです。そんなふうに書いた文章が人を動かすことがあると信じているだけだ。そういうことしかできないな、僕には。
できないけれど、人間というのはそういうものだ。まあ、僕ら凡人はそれでいいのではないかな。僕はそう考える。凡人が、自分は死んでもこのほうが正しいと思うと、人を殺すね。 僕はそういうことを考えたこともある。正しくないやつを殺さなきゃならんでしょう。自分が死のうと覚悟したときに、やっぱり人を殺す覚悟をしますな。そうじゃないですか。
話が剣呑な方向に走っていきそうになったのを危惧したのか、ここで司会が急に割って入り、「いろいろお伺いしたいことはあると思いますけど、そろそろ時間となりました。先生、 長い間、ありがとうございました。」と質疑応答を打ち切って対話は尻切れトンボで終わっている。
小林がここで言いかけたのは、たいへん重要なことだと思っている。
つまり、政治の世界であくまでも「正しさ」を追求しようとすれば、「正しくないやつを殺す」ところまでいかざるを得ないということだ。
政治を「平和のための事業」と考え、政治思想や政治理論を「技術的問題」と割り切るならこういう問題は起こらないかもしれない。
だがそこに普遍的正義とか絶対的真実の問題を持ち込めば、どうしてもそういうところまでいく。
前回の感想で、「平和について突き詰めて論じていけば戦争にならざるを得ない」と書いたのはそういうことだ。
細かく論じていく余裕がないので乱暴に結論だけ書くと、東浩紀の『平和と愚かさ』という本は「僕の思想は反政治的です」と言った小林秀雄から真っ直ぐにつながっていると思う。
『学生との対話』という本には『本居宣長』を書く前に小林秀雄が考えていたことが分かりやすく語られていて、今読むと味わい深い。