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寄席芸人横山やすしの記 林家木久蔵

寄席芸人横山やすしの記

林家木久蔵

平成8年1月21日午後8時10分、大阪の漫才師横山やすしが亡くなった。死因は多量の飲酒による肝硬変、51歳という熟年の惜しくも短い人生だった。

横山やすしと私とは芸人仲間では珍しい友人同志だった。付き合いが始まったのは昭和52年頃から、関西でめきめき頭角をあらわしてきた横山やすし・西川きよしのコンビが、初めて上京し東京キー局のテレビ演芸番組のメイン司会者におさまり、私はその中の大喜利のレギュラーとして (NTV系列の笑点とは別の・・・・・・) 出演することになり、顔合わせしたのである。

横山やすし西川きよしの性格は、まったく正反対だった。やせて神経質そうでプライドが高く、よく身体が動く横山やすしに比べ、西川きよしは温厚で腰が低く、礼儀正しくて、そしてよく太った身体は動作もやすしの半分くらいゆっくりだった。

その番組のやすきよの司会が当たり、視聴率もよくてコンビの東京上陸は成功した。他局も二人を放っておかないから、テレビのお座敷があちこちからかかり、やすきよは東京・大阪をピストン旅行する超売れっ子になった。

横山やすしと私との接点はそんな中で育くまれてゆく。横山やすしは東京はくわしくない。私に「いろいろ勉強したいのや、キクさんいろいろとおしえてえな………………」とスタジオの楽屋で言ってきた。私が芸人としては普段おとなしい方なので、組し易いと思ったのかも知れない。

付き合ってみてだんだん私は横山やすしのことが分かってきた。

ある日横山やすしと会うことになっていた。彼が上京すると常宿にしている銀座日航ホテルで午後7時と言う約束だったから。仕事が終わってすぐに私はあたふたとそこへ出掛けて行った。

フロントにメッセージが置いてあり、ホテルB1のバーで待っていると書いてある。私は彼を探しに階下に降りて、バーの扉をあけ見回すと隅の席で細身のメガネをかけた男が手をふっている。横山やすしがそこにいた。

私が隣の席へ着席してビールを注文するとあいさつもそこそこに、横山やすしのしゃべくりが始まった。

「キクさん。ちかごろの弟子はあきまへんな、わしの供でテレビ局へついてくる若いのがおるやろ、あれな局へついた時昼どきやったんや。するとそばへ来て言うんや、「やすし師匠ちょっと何ぞ食べてもよろしゅおますか?」

そらな、自分のゼニ出して腹へったから何食おうとかまへん! しかしやなァ。師匠のわしがメシ我慢してテレビ撮っとるのや、そやったら自分も我慢してや、こういう時芸人はどういう心理状態になるもんか、自分も実験してみてやな、初めて師匠の心も読めるというもんじゃ、それが芸人やないか、そやろ。それをやな。まだ格好もつかんガキが、おのれの食べ物の欲望だけで世間をはかっとんのや、ホンマに、アホか!

そやからワシは、必ずそいつのオヤジ呼んで言うたるんや、これは必ずオヤジでなけりゃあかん。

そのオヤジにやな、おのれの快楽のタネ生みさらして、よう教育もせんと大きゅうなって結果落ちこぼれや、しゃあない芸人にでもしてやろか、 師匠とやら言われとる先生に預けて、ひとつきびしく仕込んでもらい、あわよくば左ウチワで暮らそ思うてんのやろ、アホが! とっととヤメさらせ言うんじゃ!」

弟子のことで大分ふんがいしているようだったが、身ぶり手ぶり、ゼスチャーがオーバーだから、私一人で聞いているのがもったいないくらい面白い。

そのうち、横山やすしは焼肉を食べに行こうと言い出した。なんでも新橋に、一度行ってみたらおやじがこまやかに気を遣ってくれるうまい店がある。そこ行こやないかと誘うから、私に異議はない。地下のバーから外へ出ると、ホテル前だからうしろのドアを開けたまんま、タクシーが客待ちしていたからちょうどいい、私が奥横山やすしがドアの開いている左側のシートへすべり込んだ。

なんと、そのタクシーはボリュームいっぱいにラジオをかけており、若い男のアナウンサーが歌のリクエストカードを読みあげて、ゲストの女性歌手と何がおかしいのか大声で笑っている。横山やすしがすぐに反応した。

「運転手さん。すまんけどラジオとめてえな、わし以外のしゃべくりは面白うない。現在わしが一番面白いのや、そやろキクさん! こんなシンキくさいもん聞いとれるか!それにやな、運転手さん?何で客が乗ったのにポリュームいっぱいでラジオつけとるのや、ラジオ聞きたいのはおのれやろ!そのおのれの趣味何で客におしつけるのや。
客が乗ったとたんにラジオけさんかい、金とんなら気い違うもんや・・・」

元気なやすし節が始まった。タクシーの運転手は、私たち二人が乗った時から無言であったが、うしろからずうっとしかられ続けている。やがて発進したからホッとしてワンメーターの距離であったが、店の前へついたから私は1,000円払ってお釣りは結構ですと、運転手に伝えた。とっくに降りた横山やすしは、私にかまわずずんずん焼肉屋の中へ入ってゆく。何て気の早い人なんだろうとその時は思ったが・・・・・・・

テレビ番組で絶好調だった頃の二人の漫才を再録してみる。

 

きよし 三枝さんや仁鶴さんと話してまんね。ワシら芸人も、誰ぞ政界へ人出さんといかんな、て。

やすし 成る程な。

きよし  それやったら、あの横山やすしを、ぜひ引っ張り出そかと・・・・・・・

やすし うまいこと言うて、おだてたらあかんで、ほんま!

きよし 吉本に仰山芸人おるけど。おだてに乗る言うたらキミしかおらへんがな。

やすし どういう意味やそれ! 第一僕を支持してくれる人がおるかね。

きよし なんぼでもおるがな。まず全国24ヶ所の競艇ファンがついているがな。気の短い人。ケンカの強い人、全部あんたの味方や。

やすし  みんな仲間かいな。

きよし 票を入れてくれへんのは、タクシー関係ぐらいやろな。

 

以上の漫才のくだりは、昭和45年12月におきたタクシー運転手との事件以後、再びカムバックを果たしたコンビが、事件を逆手にとり、スピーディーなネタの展開で、二人の芸へと昇華させ、客の爆笑を誘っていた頃である。この頃横山やすしはまだ39歳のバリバリである。

ところが皮肉なものである、やすきよコンビはこのあたりを境に、まったく一人ずつが逆の方向へと歩み出してゆく。

昭和61年3月24日、西川きよしは大阪から参院選に出馬する。くわしく言うと吉本ビル3階の小劇場「心斎橋2丁目劇場」で正式に出馬を表明。 吉本興行には東京事務所がある。私がやすしと付き合っていた時は、今吉本の重役になっている木村政雄氏がチーフマネージャーで、やすきよを担当していた。

西川きよしはその頃、ドリフターズが人気下降、萩本欽一も影がさしてきて、このままゆけばやすきよはどうなるんだろうと悩んでいた。相方のやずしは酒の上の失敗やら、借金やら、事件やら、マイナス面ばかりが浮上してくる。きよしの参院選出馬は、政治的な関心以外の、そういった芸能活動上の煮つまったものだと、その頃をふり返って木村政雄が本の中で発言している。(「やすし・きよしの長い夏」近藤勝重著 新潮社版)「いまやるしかない!」というのが西川きよし流の勘であった。

結果西川きよし参院選の目玉となって大阪中の話題をさらい、 1,022,120 票もの得点で上位当選、バッジをつけて赤いジュータンをふむ。

初め西川きよし立候補に理解を示したようにみえた横山やすしだったが、週刊誌やテレビで「きよしは落ちるで」と明言するようになり、西川きよしがスローガンにしていた福祉の充実、老人ホームへ定期的に演芸を送り込んで慰問するという公約にも、「わしはねぇ。キ一坊(きよしのこと)には悪いけど、他人のために漫才はせえへんよ」と本音でかみつき「福祉の漫才を施設に!」というスローガンを砕いてしまう。これは20年も連れそった相方の言葉として西川きよしにとってつらいことだったろう………………

横山やすしの方は、メキメキ売出してきた愛息木村一八の突発的な事件と、自分自身の事件も抱えてしまい。やがて吉本からの追放、テレビ界からも締め出し、と、酷な運命を次から次へとたどるようになる。

漫才ファンの前で、やすきよのコンビに亀裂が生じたと映ったのはまさに、西川きよし参院選当選以後からだったのである。

 

横山やすしは大阪育ちのように思われているが、昭和19年高知県幡多郡沖ノ島村という所で生まれている。本名木村雄二、生後3ヶ月で生母と別れ、堺市市役所の地方公務員だった実父に引き取られる。生母は産後の肥立ちが悪く、沖ノ島で養生していたため、雄二の養育は父の友人の妻に任され、戦争未亡人だった彼女はわが子のように彼をいつくしんだという。

育てているうち未亡人はその子へ愛情が移り、やがて元気になって帰ってきた実母との間で、雄二の争奪戦になり、その争いは彼の小学校入学まで続いたというから、子供を他人に世話してもらうとこわい。やがて養母は実父と正式に結婚して義理の母となるが、こうした幼時の体験が屈折して、のちに横山やすしとなってからの雄二は子煩悩ぷりを発揮する。

横山やすしが漫才師になるきっかけは、中学生時代と意外に早く、母に勧められて同級生とコンビになり大阪朝日放送の「漫才教室に応募し、 「僕は易者」という題の漫才を熱演して難を連打させてからである。私は工業高校食品化学課を卒業してサラリーマン。漫画家と経て20歳すぎてかも落語家になった者であるから、私の歳は横山やすしより少し上でも、芸歴からいえば彼の方が大先輩だ。

中学卒業と同時にそのままのコンピでプロ入りし、堺伸スケ(横山やす ・堺正スケの芸名で、少年漫才として大阪角座からデビューした。その正スケが2年で引退、やむなく雄二は当時漫画トリオで人気の高かったトリオのリーダー、横山ノックの付人になり横山やすしを名乗るようになる。

その後、何組かの相方とコンビを組んでは別れ。昭和41年6月、ついに相方に西川きよしを吉本の劇団で発見。やすしが口説いて名コンビ誕生。

昭和45年11月,横山やすし阪神高速のインター降り口でタクシー運転手と事故をおこし、新聞ダネとなりせっかく上り坂だった人気もいっきにダウンし、収入も今までの 5分の1になってしまう。

やがてやすしの前夫人は幼い子供二人をおいて家を出て行ってしまう・・・・ ・・・やがて離婚。そんなある日のこと。横山やすしが上京して来たから連絡をとり、共に一夜酒を飲んだ。いろいろ事件があった割には彼は元気で、その夜は外で一杯やってから。当時私の住んでいた三鷹市の東京天文台近くの自宅まで押しかけ、冷蔵庫のビールが全部空になった明け方頃まで熱っぽく、芸界のことを語り合った。

「ワシ、離婚されてもかまへんねん。自分に落ち度があったさかい、出ていかれても仕方ない、そやけどね、自分がいちばん状態の悪い、誰も助けてくれへんとき、女房に背中向けられたのが、いちばんくやしいんじゃ」 と言ってたのが印象的だった。

それから並べて布団をひきいつの間にか二人は寝てしまう。午前6時頃だったろうか、気が付くと寝ているはずの彼がいなかった。帰ってしまったのかなと考えていると、足音が聞こえてきてハアハア息の荒い横山やすしが玄関に立っていた。毎朝ランニングをするらしい。元気な人である。

「キクさん。わしセスナ見てきたで、そこの飛行場やがな、仰山あるなァ、派手な色に塗って翼やすめとる。ええなァ、わしもういっぺん売れてセスナ買うたろ、キクさん!わしなぁ操縦しますのや・・・・・・」

東京天文台に隣接して調布飛行場がある。そこには八丈島や新島からくるプロペラ機や、新聞社、放送局等の取材用のセスナ機が翼をやすめている。横山やすしはランニングしているうちに飛行場にたどりついたのだろう。セスナを発見して大喜びのようだった。

彼はモーターボートのプロで競艇に出場して良い記録を持っているメカに強い男、飛行機の操縦ぐらい出来るだろうし、のちにテレビにカムバックして人気を盛り返すと、アメリカへ行った時セスナを買ってきて自分で操縦して大阪と東京を往復して話題をまいたりした。あのきっかけは調布飛行場へ走った朝のランニングだったろうと私は推察している。

あの朝私はゴハンを作ってあげようと近くのマーケットへ自転車で行き油揚げ、豆腐、玉子、納豆等買ってきた。うちの奥さんは5歳の長女を遠くの幼稚園に送りに行って出掛けていたから私が働いたのだ。

私は納豆が大好きだ。木久蔵流の味付けは自慢で、納豆を包丁で細かくきざみ、オカカと焼のりをもんで入れ、そこへ玉子の黄味だけおとす、ネギのみじん切りに、カラシを入れ醤油をかけて、納豆の糸で白くなるまで箸でかきまわす。味噌汁は豆腐に油揚げの具、あとたくあんに梅干しを揃えて朝の支度がととのった。

横山やすしはお茶を飲みながら、珍しそうに私の動きを眺めていたが、 私が炊きたてのゴハンを茶碗によそって味噌汁をそえて納豆の入ったドンプリをすすめると白目をむいて私をにらんで言った。

「わし、納豆大嫌いじゃ!」私が朝食の仕度をしているのをしっかりと見とどけて、いきなり文句だった。私も驚いたがやがて何だかおかしくなってしまい「あははは・・・・・・」と大声で笑ってしまった。高座でオチがついた時みたいだと思った。

「キクさん、しかし笑い事ではあらへんがな!」横山やすしも笑顔になって、また私をにらんだ。

みんけん : 民事研修 (4)(468)
民事研修編集室
1996-04




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