私たちの誤りは、起こっていることを「原現象」として捉えるべきところに、説明を求めることです。つまり、この言語ゲームが行われている、と言わなければならないところに、説明を求めるのです。
12.18に発売される東浩紀の新著『平和と愚かさ(Paix et stupidité)』の予習として彼の過去作を読み返しており、ようやく『訂正可能性の哲学(La philosophie de la correctibilité)』までたどり着いた。ここで「コロナ禍」について語られていることが既に遠い昔のことのように感じる。
その一方で、二十年以上も前のことがつい昨日のことのように感じられる。時間感覚というのは面白いものだ。ベルグソンによれば(たぶん嘘)過去の想起の強度は時間的間隔よりも心理的間隔によって決まるようだが、人生を振り返るとき、ここ十年くらいの出来事はいわば淡い水彩画のように感じられ、過去に遡るにしたがって色彩が濃くなっていき、油彩画のようなリアリティをもって感じられるようになり、さらに遡ると鮮明な映像として、時には明確な体感と共に浮かび上がる場面もある。
フラッシュバックという言葉が一般に流布するようになったのは比較的最近(ここ十年~十五年くらい)のように思っているが、通常は悪性の意味に使用されるようだ。個人的には良性のフラッシュバック体験の方が多い。といっても、別に「楽しかった記憶」を思い出すということではない。不意に、過去のどうでもいいような一瞬が生き生きとした臨場感を持ってリアルに想起される体験のことである。
たいていは子ども時代に独りで遊んでいた時の何気ない場面が多い。そのときの陽光の当たり具合や風の匂いや心の動きやらが瞬時に「フラッシュバック」する。同時に何とも言えない懐かしさがこみあげてきて涙が溢れてくる。
最近はとにかく涙腺が緩みまくっていて、特定の固有名詞(たいていは芸術家の名前や作品名など)を想起しただけで涙が溢れてどうしようもなくなるときがある。だから映画館やコンサートに行くのが憚られる。人前で涙を堪えるのに時に堪え難い努力を要する為である。
自分は陰謀論というフレーズで他人の思考をレッテル貼りするやり方は好まない。社会的事象についての因果や連鎖を考察すること自体が広義の陰謀論の範疇に含まれるのだとすれば、それを回避するためには文字通り「なんにも考えないで生きる」のが一番良いということになってしまう。さらには、反体制的な思考に「陰謀論」というレッテルを貼ることによって既得権益に都合の良い世の中にされる危険もある。
もちろん明確に有害な陰謀論というものもあって、そういうものが台頭して力を持つようになってきているのが厄介な所である。陰謀論はよくないと騒ぐ割には、今の社会には組織的に強化された陰謀論に対しては脆弱で為す術を知らない。
なぜこんなことを書き始めたのかと言うと、先日買った『陰謀論と排外主義』の菅野完の論説を読んで思う所があったからである。
菅野は戦後の排外主義の原点を谷口正治(雅春)の思想に置く。谷口は大本教から派生した新興宗教「生長の家」の教祖で、大日本帝国憲法の復活を説いた人物であると同時に、アメリカの「ポジティブシンキング」を日本に直輸入して「心の力」を説いた人物でもある。
戦後の右翼、国粋主義、排外主義、ひいては日本会議などの愛国主義などのルーツは谷口正治の思想に外ならないとする菅野の論考そのものが一つの「陰謀論」の提示であると読めないこともない。だが私はこの「陰謀史観」を興味深く読んだ。そして、彼がこれをもっと詳細に根拠づけて一冊の本にまとめたものを是非読みたいと思ったのである。

