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斎藤元彦試論のためのメモ (1)

現時点(2025年11月26日)でもなお兵庫県知事の座に居座り続けている斎藤元彦という人物は、きわめて興味深い分析対象である。

彼自身が興味深いのではなく、彼のような人間が地方自治体の首長の地位にあることによって引き起こされている事態及びそのような事態を可能にしている兵庫県庁周辺を巡る特殊事情が、ある意味で現在の日本社会の状況の象徴となっているという意味において興味深いのである。

斎藤元彦が知事として不適格であることについては、普段は主義主張を異にする全国紙(及び地方紙)が挙って指摘するという異常な出来事が示す通り、もはや論を待たない。

問題は、なぜこのような人物が知事の座に留まり続けることが可能なのか、である。

地方自治に内在する制度的不備? 議会の機能不全? 住民の民度の低さ? 住民の意思が正しく反映されるチャンネルの欠如? 支持基盤との奇妙な癒着? メディアの怠慢? 司法警察の問題? さまざまな要因が考えられるが、この場合、これらのあらゆる要因が組み合わさることによって、いわばエアポケットのように、明らかに不適格な人物が首長の座に留まり続けることが可能となりその結果「地方自治の本旨」が骨抜きにされる事態に至っているということではないか。

そして見逃せないのは、同様の事態が兵庫県のみに留まらず、全国各地に普及しつつあることである。

斎藤元彦と同じように、法的、倫理的瑕疵が発覚しても過ちを認めず居直る首長の事例が多発している。その結果、不信任案が提出され議会が解散され再選挙が行われるという無駄なコストが発生している。

これらの「不適格な」首長の中には、斎藤元彦の事例に味を占めて、いわば「選挙を盗む」ことによって再び首長の座に返り咲くことができるのではないかとの期待が生じてしまっている(そもそもそういう不適格な首長が選ばれてしまっていることが問題なのだが)。

こうした事例が繰り返されることで、ひいては民主主義そのものへの失望が広がり、民衆自身が「面倒な手続きが必要ない」独裁的な権力を欲する可能性もないとはいえない。

現在、斎藤元彦の再選を可能にするのに一役買った立花孝志が逮捕されたという事態のために、これまでの情勢に変化が生じているのは事実である。

だが、斎藤元彦自身の公職選挙法違反事件が不起訴となり、自身が直接的な法的責任を問われることを免れる見込みがでてきたことから、任期内の「逃げ切り」も視野に入っている。

斎藤元彦は、これからもあらゆる手段を用いて知事の座に留まり続けようとするだろう。彼はいったん権力を失えば、もはや何者でもないただの「社会不適合者」として社会の片隅でひっそりと生存し続けるしかないことを知っているからだ。

これまでに積み上げてきた様々な「無能・パワハラ気質・人間としての共感能力の欠如」を示す烙印的な言動(これらを可視化することに重要な役割を果たした市民的反対者たちの功績については後に詳しく述べる)のために、まともな感覚の持ち主なら一私人となった斎藤元彦と積極的な関わりを持とうとは決して思わないだろう。現在彼を取り巻いている支持者や「推し活」マダムたちも、零落し権力の威光を纏わなくなり何のオーラもなくなった彼の元を離れるだろう。

もしこの任期(あと3年!)を「逃げ切った」としても、さらに再選される見込みはほぼなく、中長期的に見れば彼の人生の行く末はほぼ定まっている。だが、そうであればこそ、これからの短い歳月は、彼の人生にとって最高にして最後の輝きを味わうことのできるかけがえのない期間なのである。

・・・と、やや硬めの調子で書き始めてしまったが、ここから先は無責任な傍観者の雑談である。もとより私に元彦周りの本格的な分析などする資格も能力もない。この呪われた素材をきちんと論じ総括するのは適正・適切な力量を備えた政治記者、政治評論家の仕事である。

だが現時点で政治記者たちが最も優先すべき仕事は、社会に害悪しかもたらさないこの歩く反面教師のような首長を一刻も早くその地位から退かせるための取材・報道に専念することであろう。メディアという権力の担い手たちは、自らの権力批判の役割を放棄して有志の市井のプロテスターのみにそれを委ねるべきではない。

・・・また硬い調子になってしまった。私が一番言いたいのは次のことである。

すなわち、斎藤元彦はきわめて取るに足りない小人物であり、その度を超えた自己愛以外には目立った特徴もない、本来なら手厳しく批判するにも値しない人間であるのに、このような状況のせいで連日容赦ない非難の対象とならざるを得ず、その結果、批判者たちの「手に余っている」ということである。

斎藤元彦自身は批判するに足る政治的信条など何も持っておらず、その言動もひたすら自らの支持者に向けたポーズと保身しかない、いわば「対象として空虚」な政治家であり、勢いその批判は彼の存在そのもの、言動の未熟さ、性格の幼稚さ、サイコパスじみた自己中心性などに向かわざるを得ない。

毎週の定例記者会見においても明らかなとおり、斎藤元彦は対人的コミュニケーション能力が明らかに欠如している。2024年3月までは「自分の言葉で」アドリブ的な発言をすることもあったが、内部告発への対応で告発者を罵倒し「公務員失格」などと口走って一連の騒動を生み出して以来、「実質的なことは何も話さない」という姿勢を貫いている。

もともと対人的コミュニケーション能力が欠如している上に上記のようなポリシーで臨んでいるから、記者との応答では毎週のように醜態を晒すことしかできない。

かかる空虚な小人物を批判し続けることは、その内容を知らず外面的な部分しか見ない者たちにとっては一種の「いじめ」の構図のように映る(そしてそれが典型的な「斎藤支持者」の理解の仕方である)。

以上長々と書いてきたが、この駄文を書き始めたのは、今朝起きた時に、斎藤元彦批判者たちの動画配信を見るたびに何か「うしろめたい喜び」を感じるのは何故だろう、と思ったことに端を発しているのだ。

以下次号




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