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chaîne alimentaire(ア、秋)

急に涼しくなってなぜか眠たくって仕方がない。

家人がコーヒーにウイスキーを入れて飲むのにハマっていて、真似してみたら早速翌朝からしつこい頭痛に悩まされた。

今朝なぜか無性に中谷美紀の1枚目のスタジオ・アルバム食物連鎖(1996年9月4日にフォーライフ・レコード /güt から発売)が聴きたくなった。

夢に出てきたからだろうか。

あまりにも奇妙な夢だから忘れないうちに書いておくと、TWICEのサナから何かのアプリを入れるためにスマホを預かったのだが、そのやり方を知っている筈の人(初めて見る人)が途中でいなくなってしまい、もう出番が迫っておりサナの機嫌を損ねてはいけないので焦っていたら、教授(世界の坂本)なら何とかしてくれるに違いないと思いつき、連絡を取ろうとしたら慶応病院に入院中とのことでタクシーで信濃町に向かった。舞台はインドに切り替わって、中谷美紀がヨガマットでガンジス河のほとりにいた。一瞬あっ、長澤まさみだ、と思ったがすぐに中谷美紀だったと気づいた。

高市早苗のぶっとび永田町日記』(サンドケー出版局、1995.8)によれば、早苗が松下幸之助の薫陶を受け、国政の場で働くことを決心したのは1985年、24歳になったばかりの春だった。

松下政経塾は1980年4月に開塾された。二十一世紀に理想の日本を実現するための諸理念、 方策を探求すること、そしてそれを推進していく人材を育成することを目的として、1979年6月21日に松下幸之助氏の私財拠出を当初の基金とし、文部省に認可を受けた公益法人として発足したのである。

早苗は大学卒業が迫っても、自分の人生をどういうことに使うかという明確な目的が、まだできあがっていなかった。ただ、早苗の中におぼろげながら固まりつつあった一つのモノサシは、一度しかない人生を賭けるのだから、自分自身が「世界で一番いい仕事をした」と思えることに自分の人生を使いたい、そんな仕事に就きたいという思いだった。
そんな中で、とりあえず国家公務員試験の受験勉強をしていたが、大学四年の夏に松下幸之助氏と出会ったことで、大きく人生が変わることになった。神戸大学の廊下を歩いていたときに、松下政経塾の塾生募集のポスターが貼ってあるのを目にしたのが始まりだった。毎月研究費としてお金をもらいながら勉強ができる学校らしい、という程度の認識しか持ち合わせていなかった。 松下氏の切実な想いを知る術もなく、自分が進むべき道を探すモラトリアムを得たい一心で受験を決めた。

一次試験は知能テストと面接で、二次試験は二日間に及んだ。一日の論文試験の問題は、「安保ただのり論」と「比例代表制の功罪」だった。さらに英語の聞き取る能力の試験、集団討論、学識経験者数人による口試問があり、二日目は半日がかりの厳しい体力試験などを経て、夏も終わりかけたころに二次試験合格の通知を受け取った。しかし、そのときにはすでに受験していた就職先がほぼ決まっていたため、明確な目的意識もないままに受けた気持ちは、なくなりかけていた。

ところが、二次試験の合格通知されていた三次試験案内に、早苗の気持ちはぐらりと揺れた。「東京のホテルニューオータニで、松下幸之助と面接」と書かれていたのである。一度は行ってみたいと思っていたかの有名なホテルニューオータニへ入れること、そして松下幸之助氏という、一代て町工場から世界を築き上げた「経営の神様」に直接会えることに興味をそそられ、とにかく三次試験を受けるだけでも受けてみようという気になった。

いよいよ明日は松下幸之助氏と会うために奈良を旅立つという夜、父が松下氏について書かれた一冊の本を早苗に手渡してこう言った。

「これを明日の新幹線の車中で読むように。それからもう一つ、ビジネスマンとして企業の人事採用の場に幾度となく立ち合ってきた経験から言っておく。できるだけ運の良さそうな顔をしていろよ」

どういうことかと聞き返すと、父はこんな話をしてくれた。

「よく不景気で就職が困難な年に、同情をひいて採用してもらおうとする若者がいるんだよ。たとえば、父は死に、母は病気で非常に自分は苦労して育ちました。今でもたいへん貧しく、この会社に雇ってもらわなければ生活が困るんです、などと言う。でも、私ならそういう人は採用しない。なぜなら、そんなに運の悪い人を会社に入れたら、社運まで傾く気がする。おそらく一代てあれだけの大企業を築き上げた松下幸之助さんは、もちろん優れた経営能力もあるだろうけれども、運をとても大切にする人なんだと思う。だから、あくまでも明るく元気に、運の良さそうな顔をしているのがいいんじゃないかな」

そして、いよいよホテルニューオータニの一室で松下氏と面接をすることになった。受験生は独りずつノックして部屋に入り、松下氏と20~40分、じっくり話し合う。

順番がきてドアを開けた。早苗は体が凍りつくような緊張を覚えた。広い屋の真ん中に座っていた松下氏は思ったよりも小さな痩せたおじいさんで、テレビや雑誌で見るようなにこやかな笑みをたたえてはいなかった。メガネの奥から鷹が獲物を射すくめるような鋭い目でじっと早苗をにらみつけ、ニコリとも笑わない。

その視線に射抜かれたとたん、早苗の背筋を冷たい汗が流れ、手が震え、舌が喉に張りついたようになり、何も物を言えなくなってしまった。学生時代のロックバンド活動で、大勢の聴衆を前にステージを束ねてきた早苗は、人前であがった経験がこれまで一度もなかったのだが、このときばかりは別だった。松下氏のひと睨みで身動きが取れなくなってしまったのである。

面接は、いったい何分間だったのか、自分が何を話したのか、未だにほとんど思い出せないような惨像たる状況だった。が、自分の体が凍りついて何も言えなくなってしまった瞬間に、早苗の中では「必ず松下政経塾に入塾してやるぞ」と、心が決まったのである―――

面接の終わり際、松下氏がボソリとつぶやいた。

「あんた、ほんまに40年間辛抱でけるか?」

これだけは、はっきり覚えている。

 

目が覚めて、富士 井風(ふじ いふう)という歌人(たぶん江戸時代)について調べてみたが、何も見つからなかった。

井上 井月(いのうえ せいげつ、1822-1887)は、日本の19世紀中期から末期の俳人である。信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた。その作品は、後世の芥川龍之介種田山頭火をはじめ、つげ義春(『無能の人』)などに影響を与えた。

井月は松尾芭蕉の『幻住庵記』(約一三〇〇字)を暗記しており、ある紺屋の店先で、酒を飲みながら唐紙四枚に何の手本も無く、千字以上をしたためたという。この『幻住庵記』の筆跡を見た芥川龍之介は「入神と称するをも妨げない」と絶賛した。

 

草木のみ吹にもあらず秋の風
(くさきのみふくにもあらずあきのかぜ)

 

迷ひ入山に家あり蕎麦の花
(まよいいるやまにいえありそばのはな)

 

中谷美紀は坂本の訃報に際し次のようにコメントしている(一部)。

「迷い多き10代の頃、教授の奏でる美しい旋律と、そこに忍ばせた不協和音は、暗闇に差し込む一縷の光明のように私を救ってくれました。」




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