昨夜は夜9時から朝4時半までこれを見ちゃったせいで今日は完全に寝不足。
この長いトランスクリプトは、YouTubeチャンネル「ゲンロン【公式】」での特別な無料配信の一部であり、主に**「友の会」の更新と特典に関する宣伝を含んでいます。話者たちは、会員特典のお得さ(特に新刊書籍やシラスチケット)、会員資格が「いつ入会しても1年間有効」になったという新しいシステム変更を強調しています。また、自身の動画再生数の限界や、現代のアテンション・エコノミーにおける影響力について語るほか、哲学や現代社会の問題(例:暴力、想像力の欠如、AI、政治)について断続的に議論**しています。放送の最後には、他の登壇者やゲストとの対話を通じて、ゲンロンの活動やコミュニティの性質についても触れられています。
東浩紀が若手に期待すること
東氏は、自身が属する世代が経験してきた楽観的な未来像が実現しなかったことから、現代の政治や社会に対してある種の諦めを感じていると述べています。そのため、次の世代に期待を寄せている側面があります。
具体的に若手に期待していることとして、以下のような点が挙げられます。
1. 新しい世代による言論の継承と刷新
東氏は、自身が編集長を務める雑誌『ゲンロン』に加え、若手を中心としたチームが制作する新しい雑誌『ゲンロンY』(YはヤングのY)を創刊することに言及しています。これは、東氏の価値観だけにとらわれない新しい言論の場を作るための試みです。若手編集者たちが自由に雑誌を作ることで、世代交代を真剣に考えており、若い人たちにいかに引き継いでいくかが大事な問題だと考えていることがわかります。
2. 既存の枠組みにとらわれないラディカルな批評の実践
東氏は、かつて自身がアニメやポルノゲームといった、アカデミズムから「アウト」と見なされるような対象を批評の俎上に載せた経験を語っています。その上で、現代の若手批評家たちの活動が、国民的な人気作を扱うなど「優等生的」で「保守的」に見えると指摘しています。
東氏は若手に対し、「俺を驚かしてくれよ」と述べ、「マジかよこんなやつが面白えの」「お前らこんなやつ面白いと思ってるの」と思わせるような、既存の価値観を揺さぶる対象を発掘し、批評的な視点を当てることを期待しています。それは単に奇抜なものを選ぶのではなく、編集者自身の受け止め方も含めた「驚き」を求めています。
3. 新しい時代における実践と理論の接続
東氏は、自身の世代の論壇が「実践が大事だ」と口先だけで語り、実際には行動が伴っていなかったと批判しています。自身はそうした言説を「真に受け」、実際に雑誌や会社を設立するなどの実践を行ってきたと自負しています。
その上で、若手世代が自分たちの時代において、何と何を繋げれば新しい批評的な実践になるのかを考え、行動に移すことを期待しています。それは、東氏の世代がやったことを繰り返すのではなく、現代のメディア状況の中で、全く分離しているように見えるものを繋げるラディカルな試みであるべきだと考えているようです。
4. 日本の批評や思想の伝統の継承
東氏は、自身が江藤淳や柄谷行人といった日本の批評の伝統を受け継いでいるという自覚を持っており、その伝統が途絶えることへの危機感を表明しています。そして、自身の後継者という形ではなくとも、日本の批評や思想を本当に好きで、本気で受け継いでくれる「たった一人」の若者が現れることを強く望んでいます。それは、単に過去の著作を読むだけでなく、東京という場で様々な論者と戦ってきたような批評的実践の継承をも含意しているようです。
以上のように、東氏は若手に対し、単に言論活動を続けることだけでなく、世代交代を担い、既存の枠組みを打ち破るような驚きと実践を伴った新しい批評を創造し、さらには日本の思想の伝統そのものを受け継いでいくという、多岐にわたる大きな期待を寄せていることが伺えます。
東と森脇透青との間で交わされた議論
提供された情報源によると、東浩紀氏と森脇透青氏との間では、Zoomをつないで以下のような議論が交わされました。議論は東氏による森脇氏への問いかけや期待から始まり、現代の批評や思想のあり方にまで発展しました。
1. 森脇氏の活動に対する東氏の期待と叱咤
東氏は、森脇氏が「これから自分のやるべきことに集中するためにイベントも出ないし原稿も断る」といった趣旨のツイートをしていたことに対し、「甘えている」「気合が足りない」と叱咤激励しました。
• 博士論文と活動の両立: 東氏は、博士論文が書けないのは森脇氏自身の問題であり、それと他の活動(イベント登壇や原稿執筆)は両立させるべきだと主張しました。自身も博士論文を書きながら様々な活動をしていた経験を引き合いに出し、「博論書いててやるんだよ気合が足りない」と発破をかけています。
• 『ゲンロンY』への継続的な関与: 東氏は、森脇氏が編集委員を務める『ゲンロンY』の第2号以降への関与を強く求めました。博士論文を理由に『ゲンロンY』から離れるようなことがあれば「物理的に締める」と冗談めかして言い、継続的なコミットメントを期待していることを示しました。
2. 「考えないこと」をめぐる哲学的議論
東氏が最近考えているという「考えないこと」の重要性について、森脇氏に意見を求め、専門的な議論が交わされました。
• 東氏の問題提起: 東氏は、デカルトやフッサールに代表されるヨーロッパ哲学が「考えること」を中心に据えてきた一方で、「考えないこと」の力を軽視してきたと指摘します。そして、人間の営みにおいて「考えないこと」、すなわち「余暇」の重要性を再評価する必要があるのではないかと問いかけました。
• 森脇氏の応答(精神分析との接続): 森脇氏は、この東氏の議論をデリダ研究におけるフロイト(精神分析)の位置づけと結びつけて応答しました。考えることには常に「考えていないこと(無意識)」が付随するという精神分析の知見こそが、東氏の言う「考えないこと」の問題系と繋がると指摘します。
• 「思考不可能なもの」の扱い: 議論はさらに、「思考不可能なもの」を神秘化することの暴力性へと発展しました。東氏は、思考不可能なものを言語化しようとする実践(例:ガタリ)の重要性を強調し、思考不可能なものをそのままにしておく態度は学問的な自己満足に陥る危険があると述べました。
3. スマホ時代の「余暇」と「退屈」
森脇氏は、東氏の「余暇」のイメージが現代の状況とズレている可能性を指摘し、議論をさらに深めました。
• 森脇氏による「退屈2.0」の提示: 森脇氏は、マーク・フィッシャーの議論を引き、かつての「何もすることがない退屈(退屈1.0)」と、現代の「スマホをいじり続けて常に何かはしているが、ずっと退屈なものに触れ続けている状態(退屈2.0)」を区別しました。そして、東氏の言う「余暇」は前者のイメージに近いが、現代のリアルな余暇は後者であり、その食い違いをどう考えるかが重要だと問題提起しました。
• 東氏の応答: 東氏はこの指摘を「いい指摘だ」と認め、自身の議論をアップデートする必要性を認識しました。そして、リゾート地に行ってもスマホを見続ける現代人に対し、いかにしてアクセスを断ち切らせるか、そのための倫理や装置が必要だという考えを示しました。
4. 現代の批評の実践をめぐる議論
東氏は、現代の若手批評家たちの活動が「優等生的」で「保守的」に見えると述べ、森脇氏たちの世代に対し、既存の枠組みにとらわれないラディカルな実践への期待を表明しました。
• 「驚き」の欠如: 東氏は、自身がかつてアカデミズムから「アウト」と見なされるような対象(アニメやポルノゲーム)を批評の俎上に載せた経験を語り、現代の若手批評が国民的人気作を扱うなど、ラディカルさが欠けていると指摘しました。そして、「俺たちを驚かしてくれよ」「マジかよこんなやつが面白えの」と思わせるような対象を発掘し、批評することを強く求めました。
• メディア状況の変化: 森脇氏は、現代のメディア状況が東氏の時代とは異なり、閉じられた世界を繋げるという身振り自体が難しくなっていると応答しました。インフルエンサーのように、アカデミズムとは別の価値基準ですでにメジャーになっているものが多く、単純に「アウト」なものを発掘することが困難になっているという認識を示しています。
• 理論と実践の接続:東氏は、自分たちの世代の論壇が「実践が大事だ」と口先だけで語っていたのに対し、自身はそれを「真に受け」て会社や雑誌を設立するなどの実践を行ってきたと述べました。森脇氏たちの世代には、自分たちの時代において何と何を繋げれば新しい批評的な実践になるのかを考え、行動に移すことを期待しているようです。
以上のように、両者の議論は個人的な活動への期待から、哲学的な問題、さらには現代批評の課題といった多岐にわたるテーマへと展開されました。
移民問題と排外主義に対する見解
東浩紀氏は、現代世界が直面している課題の一つとしてヨーロッパの移民問題を挙げています。かつてはグローバル化によって国境を越えた人々の交流が高まり、自由民主主義が地球全体を覆うという楽観的な未来像が語られていました。しかし、その理想は実現せず、ヨーロッパは移民問題でガタガタになっていると指摘しています。
このような状況に対して、単に「ヘイトは良くない」「排外主義は良くない」と述べるだけでは、世の中は変わらず、根本的な解決策が出ていないのが現実だと述べています。
東氏自身の立場としては、日本は基本的に外国人を受け入れなければダメな国だと考えています。しかし同時に、日本人が外国人に対して非常に強い抵抗感を持っていることも確かだと認識しており、その調整をどう図るかが行政の役割だと考えています。
議論の中で、良い外国人と悪い外国人を分けるべきではないかという論点が出た際には、リベラル派はそのような区別を論理的にできない弱点があると指摘しています。そして、外国人を受け入れていくということは、同時に誰かを排除するということと同じであるという、現実的な側面を直視する必要があるとの見解を示しています。
現在の日本については、この半年ほどで外国人排斥に関する報道が非常に増えていると感じており、危機感を抱いているようです。そして、こうした排外主義的な風潮に対して、知識人は「外国人か日本人かという対立自体を無意味化する」ような発信をしていく必要があると考えています。
また、排外主義の問題を解決するためには「想像力」が重要であると繰り返し述べています。近代において、文学や小説は、異なる背景を持つ他者を同じ共同体の人間として想像する力を育む役割を担ってきました。しかし、現代ではその想像力が衰退しており、それが排外主義の一因になっていると見ています。したがって、フィクションや芸術などを通じて、再び他者への想像力を拡張していくことが、排外主義に対抗するために不可欠であると考えているようです。
文学に対する見解
提供された情報源に基づき、東浩紀氏の文学に対する見解について以下のようにまとめます。
1. 読書の役割と共感の限界
東氏は、読書が直接的にビジネスの役に立つという考え方には否定的です。音楽やスポーツと同様に、読書は人生を豊かにするものではあるものの、苦手ならば無理にやる必要はないと考えています。
また、現代の世の中では「共感」が重視される傾向にあると指摘します。自身が広く共感を得られていない理由として、音楽やスポーツに関心がなく「本だけが好き」という偏った経歴や、共感されにくい発言をしていることを自己分析しています。
2. 近代文学が果たした「想像力の拡張」という役割
東氏は、近代ヨーロッパにおいて文学(小説)が「想像力の拡張」という重要な役割を担ってきたと考えています。小説を読むことを通じて、人々は自分とは異なる背景を持つ他者を同じ共同体の一員として想像する力を育んできました。この想像力は、ナショナリズムの形成 や人権思想の誕生 と密接に結びついていました。政治は本来、この「想像力の拡張」とセットでなければならなかったのに、いつの間にか文学やカルチャーの話として切り離されてしまったことが、現代社会の問題の一因であると見ています。
3. 文芸批評の現状と伝統の継承
大澤聡氏との議論の中で、東氏は文芸批評の現状について見解を述べています。大澤氏が文芸誌の伝統を守るために批評活動を行っていることに対し、東氏はその保守的な側面に疑問を呈します。東氏自身は、かつての批評空間の伝統を受け継ぎつつも、ニコ生のような新しいプラットフォームと関わることで、より面白いものが生まれると考えています。
東氏は、日本の文学の伝統を特権化することには関心がなく、むしろ世界的なマーケットでは漫画の方が強いといった現実を指摘します。
一方で、東氏自身は江藤淳や柄谷行人といった日本の批評の伝統を受け継いでいるという自覚を持っており、その伝統が途絶えることへの強い危機感も表明しています。そして、自身の後継者という形ではなくとも、日本の批評や思想を本当に好きで、本気で受け継いでくれる「たった一人」の若者が現れることを強く望んでいます。それは、過去の著作を読むだけでなく、東京という場で様々な論者と戦ってきたような批評的実践の継承をも含意しているようです。
4. 想像力の衰退と現代社会
東氏は、現代において人々が「想像力」を拡張できなくなっていることが、排外主義などの問題の根源にあると考えています。AI(人工知能)に最も欠けているのも想像力であり、合理性だけでは乗り越えられない問題に対処するためには想像力が必要不可欠だと主張しています。
想像力を取り戻すためには、ビジネスや政治で使われるような「要約する言葉」ではなく、小説やドキュメンタリー映画のように、理解に**「時間がかかる言葉」や経験を豊かにしていくこと**が重要だと考えています。
以上のように、東氏は文学、特に近代小説が果たしてきた「想像力の拡張」という役割を高く評価しており、その力が失われつつある現代社会に強い危機感を抱いていることがわかります。
柄谷行人に対する東の思い
提供された情報源によると、東浩紀氏が柄谷行人氏に対して抱いている思いは、自身を柄谷氏の思想的後継者であると強く自負している点に集約されます。以下に詳しく説明します。
東氏は、自身の同世代やより上の世代(宮台真司氏や大塚英志氏など)が、柄谷氏が提唱してきたことを「真に受けて」真剣に実践してこなかったと考えています。これに対し、東氏自身は柄谷氏の思想や提言を「真に受けた」人間であり、実際に雑誌を創刊したり、「NAM」のような組織を作ったりといった実践を行ってきたと述べています。
この文脈で、東氏は柄谷氏の思想を受け継いでいると自称する他の人々に対して、強い批判意識を表明しています。
「とにかく柄谷行人を引き継いでるみたいな人たちとかもいっぱいいるわけだよね。で僕からすると彼らはみんな詐欺師ですよ」
「彼らは何もやんないんだと思う。彼らは大学の先生になったりするだけだと思う。柄谷さんっていう名前を使って」
このように、東氏は、口先だけで柄谷思想を語り実践の伴わない人々を「詐欺師」とまで呼び、自身の実践こそが柄谷氏の思想を真に受け継ぐものであるという強い自負心を覗かせています。
さらに、東氏はこの思いを非常に強い言葉で表現しています。
「僕はとにかくしょっちゅう言ってる通り、僕だけが柄谷行人を引き継いだと思ってるので。うん。もう以上ですよ」
この発言は、東氏が自身を唯一の正当な後継者であると位置づけていることを示しています。しかし、同時に、柄谷氏本人やその周辺の人々からは自身が後継者として認められていないという認識も持っており、そのことについてこれ以上主張するつもりはない、という複雑な心境も語っています。
また、東氏は柄谷氏に対して多大な「学恩」を感じており、それは一生かかっても返しきれないものであるとも述べています。
以上のことから、東氏の柄谷行人氏に対する思いは、単なる尊敬や師弟関係に留まらず、「柄谷氏の思想を真に実践し、その思想的遺産を引き継いでいるのは自分だけである」という強烈な自負と、それが周囲(特に柄谷氏本人やその周辺)からは認められていないという認識からくる複雑な感情が入り混じったものであると言えます。
AI(人工知能)に対する見解
1. 想像力の欠如と合理性の限界
東氏は、現代社会が直面する様々な問題の根源に「想像力の欠如」があると指摘しています。その上で、AIに最も欠けているものが「想像力」であると述べています。
• 合理性だけでは解決できない問題: AIは合理性や論理に基づいていますが、人間社会における対立や暴力を抑制するためには、合理性だけでは不十分だと考えています。人々が持つべきなのは、正義の感覚よりもむしろ、相手の立場や背景を思いやる「想像力」です。
• AIの指示に従うことの危険性: AIの指示に従うことは、合理的な判断かもしれませんが、そこには想像力が欠けている可能性があると指摘されています。合理性だけを追求すると、複雑な側面を無視した判断につながる危険性があります。
• 食事管理の例: AIに食事管理をしてもらうという話が出た際、東氏は、AIがまともな(合理的な)ことを言うだろうと認めつつも、問題は人間がその話を聞く気になるかどうか、つまり合理的な指示に従い続けられるかという点にあると指摘しています。
2. 人間の知性を超える存在としてのAI
東氏は、AIが人間よりも知的に優れた存在になることに対して、一部で語られるような脅威は感じていないようです。
• 人間を超える存在は常にあった: 人間は昔から、神や自然といった自分たちの能力を超える存在を認識し、それらを利用したり従ったりしながら文明を築いてきました。AIがそこに加わったとしても、本質的には何も変わらないと述べています。
• 「頭の良さ」の多様性: 「人間よりも頭が良いもの」という表現自体に疑問を呈しています。受験勉強ができることだけが頭の良さではなく、スポーツや音楽ができることも同様に知性の一つの形です。世界の物理的な動き自体も一種の計算機のようなものであり、世界は人間の脳を超える複雑さに満ちているため、AIの登場を特別視する必要はないと考えているようです。
3. AIによる政治や社会の変化への懐疑的な見方
AI技術が政治を根本的に変えるという考え方に対しては、懐疑的な立場を取っています。
• 若い政治家がAIによって政治を変えようと試みることは応援し、その可能性に期待はするものの、心のどこかでは「変わらないだろうな」と思っていると率直に語っています。これは、インターネットのような新しい情報技術が登場した際に抱かれた楽観的な未来像が実現しなかったという、自身の世代の経験に基づいています。
4. 編集者・エンジニアの代替としてのAI活用
言論の社内では、AIの力を活用して編集者がエンジニアリングのスキルを身につけるといった実践が行われているようです。これは、AIを単なる脅威や代替物としてではなく、人間の能力を拡張するツールとして捉えていることを示唆しています。
以上のように、東氏はAIの合理性や計算能力を認めつつも、それに欠けている「想像力」の重要性を強調し、AIが人間社会を根本的に変えるという楽観論には懐疑的な見方をしています。
LLM(Large Language Models、大規模言語モデル)について
ソースによると、LLM(大規模言語モデル)は、言語や思考に関する従来の哲学的な考え方を覆す可能性を秘めていると論じられています。
LLMが明らかにした言語の本質
LLMの登場によって、言語には明確な境界がないという考え方が現実味を帯びてきました。従来、言語はそれぞれの国や民族に固有のもの(ソシュールが言うところの「ラング」)として捉えられ、その境界を越える「翻訳」は本質的に不可能、あるいは困難であると考えられてきました。
しかし、LLMは特定の言語の文法(ルール)に従っているわけではなく、膨大な量の単語や文章のパターンを学習し、単語と単語、文章と文章の近さに基づいて言語を生成しています。これは、人間が複数の言語を話す際に、頭の中でそれぞれの言語を別々に使い分けているのではなく、一つの大きな言語体系の中で状況に応じて適切な表現を選んでいるのに近い状態かもしれません。
このことから、ソースでは以下のような大胆な見解が示されています。
• 言語の境界は存在しない:日本語と英語、あるいはフランス語とオランダ語といった言語の間に本質的な境界はなく、実は人類は皆、一つの「人類の言葉」を話しているだけなのかもしれない。
• 翻訳不可能性という哲学の前提が崩れる:LLMは、これまで哲学の大きなテーマであった「翻訳の不可能性」という前提自体が間違っていた可能性を示唆しています。翻訳は不可能どころか、むしろ超可能であり、現実そのものであると言えるかもしれません。
• 書き言葉中心主義の見直し:翻訳の不可能性といった議論は、書き言葉や、国民国家における整備された文法を前提としてきたからこそ生まれたものであり、その前提自体が揺らいでいる可能性があります。
このように、LLMは言語が普遍的なルールに基づいているという近代的な考え方そのものに疑問を投げかけており、これは哲学における根本的な問題提起だと述べられています。
AIと人間の思考・想像力
LLMを含むAI(人工知能)と人間の知性の関係についても議論されています。
• 人間の思考を変えるAI:情報技術や計算機科学は、人間の「思考とは何か」というイメージそのものを変えました。
• AIに欠けている「想像力」:AIは合理性やアルゴリズムに基づいていますが、人間にとって重要な**「想像力」が最も欠けている**と指摘されています。想像力とは、規則や論理だけでは抑制できない暴力性を抑える力であり、自分とは異なる他者の存在を思う力です。
• AI時代の人間性:AIの時代において、かつて近代文学が担ってきたような、他者を想像し、人間性を確保する役割を何が担うのかが問われています。
20世紀のカリフォルニアの研究者たちによる「思考」に対する考えの革命的変化について
東氏は、20世紀最大の哲学者は、一般的に名前が挙がるような人物ではなく、ある観点から見ればアラン・チューリングやクロード・シャノンであると考えています。彼ら計算機の哲学に連なる研究者たちの思想は、マルクスやルソーがそうであったように、実際に世界を大きく変えました。
東氏によれば、この革命的な変化の核心は、我々の「思考」そのものに対するイメージや概念を変えたという点にあります。
「思考」の概念の転換
• 情報と計算の概念の発明: シャノンは「情報(インフォメーション)」という言葉を、それまでの「知性(インテリジェンス)」とほぼ同義だったものから、物理量のように測定可能な「情報量」として定式化しました。このような情報や計算といった概念の発明が、言語とは何か、記号とは何かといった、哲学の非常に基本的なパラダイムを転換させたと東氏は指摘しています。
• 思考のイメージの変化: この情報学や計算機科学の革命は、我々が「思考」について抱くイメージそのものを変えました。それまでは、思考は記号操作のようなものだと考えられていましたが、その捉え方自体が変わったのです。
カリフォルニアが哲学の中心だったという視点
東氏は、この「思考」をめぐる革命的な変化が、特にカリフォルニアで起こったことを強調しています。
• **「22世紀、23世紀の哲学者は、20世紀の哲学の中心はカリフォルニアにあったと思うだろう」**と述べており、パリの哲学が世界を変えなかったのに対し、カリフォルニアの哲学(IT革命に繋がる思想)は現実に世界を変えたと確信しています。
• フーコーが述べたような18世紀から19世紀にかけてのエピステーメー(知の枠組み)の転換と同様の、非常に大きな転換が、20世紀の初頭、おそらく1930年代頃に起こったと東氏は考えています。未来の哲学者は、歴史研究としてこの点を明確に捉えるだろうと予測しています。
既存の哲学への問題提起
この視点から、東氏は既存の哲学、特にヨーロッパの思想が「考える」ことを中心に据えすぎていると批判します。
• ヨーロッパの思想は「考える中心主義」であり、デカルトやフッサールに代表されるように、**「考えることを考える」**という自己言及的なループに陥りがちでした。
• こうした伝統は「考えないこと」の力を排除してきたと東氏は指摘します。
• 情報学や計算機科学によってもたらされた「思考」概念の変化は、こうした伝統的な哲学の前提そのものを問い直す力を持っていると東氏は考えているようです。
このように、東氏は20世紀のカリフォルニアで生まれた情報学や計算機科学が、単なる技術革命に留まらず、我々の「思考」という概念そのものを根底から変える哲学的な革命であったと捉えています。
提供された情報源によると、東浩紀氏はフッサールや現象学について以下のような見解を述べています。
現象学への苦手意識
東氏は現象学を「すごい苦手なもの」と表現しています。その理由として、現象学が内観、つまり**「すげえ自分の心をしっかり見つめ直してみよう」というアプローチ**を取る点を挙げています。
例えば、フッサールの『内的時間意識の現象学』を例に出し、メロディーを聴く際に、ある音を聴いている瞬間にも過去の音や未来の音が入り込んでいる、というような分析について触れています。東氏はこうした議論を「話して面白い」としつつも、結局は「俺ん中で考えてみようみたいな話」であり、「物理的なメカニズムみたいなものの方向にあんま話がいかん」と感じ、あまり好きではなかったと語っています。
哲学史における位置づけ
東氏は、フッサールの現象学をデカルト哲学の継承であると位置づけています。デカルトの「我思う、故に我あり」に代表されるように、自分の中で考え、自分を見つめ直すという「内観」を哲学の中心に据える流れを汲んでいると考えているようです。
さらに、ジャック・デリダの研究者であった自身の経歴から、デリダの初期の重要著作(『声と現象』など)がフッサールに対する註釈本であったため、現象学の基本書は読んでいたと述べています。
「考える中心主義」としての批判
東氏は、デカルトからフッサールへと続くヨーロッパの思想の主流を**「考える中心主義」**だと批判的に捉えています。それは「考えることを考える」という自己言及的なループに陥りがちで、「考えないこと」の力を排除してきたと指摘します。
この文脈で、デリダがフッサールの哲学を要約した**「サンタンドル・パルレ(自分が話すのを聞く)」**という言葉を引用しています。これは「考えることを考える」というデカルト以来の哲学の核心を示しており、東氏はこの伝統に強い違和感を抱いているようです。
東氏自身の近年の関心は、この「考える中心主義」の外側にある「考えないこと」の重要性を探求することにあると語られています。現象学は、その対極にある「考えることを突き詰める」哲学として、東氏の思索の出発点の一つになっていることが伺えます。
東浩紀の次の著作について
提供された情報源によると、東浩紀氏の次の著作について以下のような情報があります。
著作の概要
• 刊行時期: 2024年12月頃に出る予定です。
• ページ数: 500ページを超える大著になる見込みです。
• 予価: 定価は3,000円を超える可能性があります。
• タイトル: 『平和と愚かさ』というタイトルになるようです。
• 内容:
◦ 東氏自身は「考えないこと」をテーマにしていると述べています。
◦ 人間は「考えないこと」を排除してきたが、その「考えないこと」の力を排除した世界には平和も自由もない、というのが東氏の思想であり、それが本の裏テーマとなっているようです。
◦ 東氏はこの本を非常に哲学的な本だと考えていますが、おそらく大学院生や若手研究者からは政治や旅の本だと思われるだろうと予測しています。
◦ 内容は旅に関するものが多く、遊びの旅から始まる「ずっと旅の本」でもあるようです。
◦ 編集を担当している上田洋子氏によると、「普遍的な本」であり、図書館で出会って「一生大切になるようなタイプの本」という印象とのことです。
ゲンロン友の会との関連
• この新刊は、ゲンロン友の会に入会すると特典として選べる単行本の一冊に含まれます。
• 友の会の特典では、本の定価に関わらず「1冊」として扱われるため、定価が3,000円を超えると予想されるこの本を選ぶと非常にお得であると強調されています。