ロッキング・オンが音楽誌の世界で最も影響力を持つようになった1990年代の後半から、渋谷は前項で述べた吉本隆明をはじめ、河合隼雄、宮崎駿、蜷川幸雄、北野武といった音楽とは異なるジャンルの「文化人」たちに急速に接近して行く。
同時に『BRIDGE』『SIGHT』といった渋谷個人の文化的、社会的関心の嗜好が反映された雑誌を次々と刊行していく。
渋谷にとってこうした「カルチャー」への接近は何を意味したのだろうか?
ぼくは90年代後半以降の「ロッキン・オン」はほとんど読んでいないし、渋谷陽一個人の活動もまともに追っていないので、事実誤認や思い込みがあると思うが、今知っている限りでその辺を考察してみたい。
増井修が書いていたが、渋谷は70年代の終りにはすでにロックには「飽きて」しまっており、専らブラック・ミュージックを聴くようになっていたという。
そのこともあって、「ロッキン・オン」編集長の座を降りることを早々に増井には伝えていたらしい。
渋谷のこの時期の判断として正しかったのは、当時はまだ正当に評価されていなかった「日本のロック」を専門に扱う雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』を立ち上げたことだろう。ご存じのとおり、創刊号の表紙は佐野元春であった。

ヒットチャートとは無縁だった「日本のロック」を積極的に取り上げ、マニアックなバンドにも紙面を割き、何よりも、アーチストの内面をじっくりと掘り下げる「2万字インタビュー」という形式を生み出し、それまでの音楽誌にはなかったアプローチを行った。こうしたやり方には功罪あったと後になって評価される面もあったが、少なくともぼくがリアルタイムで読んでいた80年代は毎号確かな読みごたえがあった。
このとき、渋谷は前述のようにロックという音楽にはもう飽きていた(正確に言えば、「ロックで世界を変える」といった熱意や初期衝動は失われていた)のだろうが、日本の音楽シーンを刷新するという新たな挑戦に燃えての行動だったと思う。
そしてその目論見はある程度達成できた。
次に渋谷が挑んだのは「音楽以外の分野への進出」であった。
音楽以外の映画やファッションなどを取り上げる『CUT』という雑誌を立ち上げ、サブカルを扱う『H』や先ほども述べた『BRIDGE』『SIGHT』など、ロッキン・オン社として雑誌を量産していく。
同時に、冒頭に述べたように各種文化人への接近が起こる。90年代の渋谷陽一は音楽だけでなく日本のカルチャー全体を刷新するという情熱に駆り立てられていたように思える。それは、あくまで「音楽」評論にこだわった初期の渋谷の姿勢とは異なる、大きな方向転換だった。このあたりから個人的には彼の活動をフォローしなくなった。
渋谷は文化人たちと対等に渡り合うのではなく、彼らの黒子に徹し、編集者としてのアプローチに徹していたように思える。例えば北野武がロッキング・オン社から出したインタビュー本は北野の独り語りの形式を持ち、インタビュアー渋谷陽一の姿は表に出て来ない。後の松本人志の本でもそうである。
ちょっとまとまりがつかなくなってきたので急いで結論に走ると、90年代の渋谷陽一のカルチャーへの接近は、後の社会分野、政治分野への進出を睨んだ布石としての側面もあったのではないかと思っている。それは別に渋谷自身が政界に進出するということではなくて、フィクサー的な立場を取るという意味も含まれる。
なぜ文化活動が政治につながるのか、暴論に過ぎない、という批判は承知の上だが、自分にはなぜかそう思われるのである。彼の情熱の根底にはやはり「日本社会を変えたい」という志があったと思うのだ。
『SIGHT』という雑誌ではもうかなり露骨に政治色を前面に出した特集を毎号組むようになっている。どんどん右傾化していく国政の潮流に逆らうかのように自民党批判、安倍政権批判を繰り返していた。
これは完全に私個人の妄想にすぎないことを断ったうえで書くが、『SIGHT』の最後の発刊となった2017年頃から、肉体的変調もあったのかどうかは不明だが、彼を生きることへと駆り立てていた「初期衝動」が遂に失われていったのではないかという気がする。要するに「生きていく上でのさらなる挑戦となる大きな目標」みたいなものがなくなったのではないだろうか。
加えて松村雄策の死(2022年3月)は堪えたに違いない。「ロッキン・オン」の松村雄策追悼号に寄せた渋谷陽一の追悼文は、今読むと、とても痛切な文章である。

2022年7月には最大の「敵」とも言えた安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。渋谷が倒れたのはその約1年後(2023年11月)であり、闘病の末に亡くなったのは、安倍元首相が倒れたちょうど3年後であった。