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池田晶子年譜(簡易暫定版)

※個人的な備忘録であり正確性の保証はなし。随時更新予定

1960年(昭和35年

8.21 午後9時5分、東京都港区に生まれる。父親は朝日新聞論説委員(?)

1972年(昭和47年)12歳

港区立御田小学校卒業。6年2組のとき卒業記念制作で童話「空を飛べたら」を発表(『私とは何か』に収録)。

1975年(昭和50年)15歳

港区立港中学校卒業。作家の佐藤哲也(2023没、作家佐藤亜紀の夫)とは同窓。

夏休みの読書感想文を三島由紀夫の『豊穣の海』で書く。

1978年(昭和53年)18歳

慶應義塾女子高等学校卒業。高校時代は登山に熱中する。

慶應義塾大学文学部入学。

1982年(昭和57年)22歳

大学時代は中央大学教授だった哲学者木田元に師事。在学中に一人暮らしを始める。

両親は、娘の飲酒を認めない。「哲学で生活できる訳がない」と進路にも反対する。大学3年で実家を出て、線路を挟んで反対側の街に四畳半のアパートを借りた。

2004年6月1日 読売新聞記事より

アルバイトとしてファッション雑誌『JJ』の読者モデルを務める。

1983年(昭和58年)23歳

3月、慶應義塾大学文学部哲学科(倫理学専攻)卒業。

”考える時間を持つため”にモデル事務所を辞め、感傷旅行の帰りに木田元と電車でばったり出会う。出版社に入りたいと池田から言われた木田は、翌日会うことになっていた編集者(当時『文藝』編集長高木有)を紹介。編集部で校正の仕事を始める。

1984年(昭和59年)24歳

『群像』1984年10月号に掲載された埴谷雄高『死霊』第7章を読み、「あれっ、おんなじことを考えている」と感じる。

1986年(昭和61年)26歳

初夏の夜、高木有に伴われ、吉祥寺の埴谷雄高の自宅を訪ねる。夜更けまで酒を酌み交わしながら哲学や宇宙や存在の話で意気投合し、埴谷から「君は面白い、期待している」と励まされる。

勢いで書いた埴谷雄高論を高木に見せる。猛烈な添削を受けたが、『文藝』1986年秋号に「最後からひとりめの読者による埴谷雄高論」として掲載される。

ちなみに『死霊』第8章の発表は『群像』1986年9月号。

1987年(昭和62年)27歳

文學界』1987年新年特別号に埴谷との対談「存在と非在のための文学--76歳と25歳の『無限大種属人』の精神のリレー」が掲載される。

「存在の律動〔論理〕」(『文藝』1987年春号)初出時「事象そのものへ!」

1.30付で獄中の永山則夫から池田のヘーゲル論を批判する手紙が届くが、返信せず。

「註解『不合理ゆえに吾信ず』」(『文學界』1987年7月号)

8月、単行本処女作『最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論』(河出書房新社刊行

「清冽なる詐術〔詩〕」(『文藝』1987年秋号)初出時「事象そのものへ!(二)」

『文藝』と決裂。その後しばらく「干されて」「ふてくされて寝て」日々を過ごす。

1988年(昭和63年)28歳

「哲学への開放」(『中央公論』1988年11月号)

西部邁が「続 批評する精神」でこの文章を取り上げ、「私はこれらの言葉に衷心より同意するので、余計なコメントは加えない」と書く。

この頃、犬を飼いたい一心で古いアパートを探し、コリー犬「ダンディー」と一緒に暮らし始める。

1989年(平成元年)29歳

「未知への帰還〔科学〕」(『群像』1989年7月号)初出時「科学という鏡」

「非―女権思想論」(『中央公論』1989年9月号)

1990年(平成2年)30歳

「禅についての禅的考察」(季刊『仏教』1990年1月)

「変幻と貫くもの〔心理〕」(『群像』1990年4月号)

1991年(平成3年)31歳

「発現する消失点〔神〕」(『群像』1991年3月号)

7月、単行本第2作『事象そのものへ!』(法藏館

小林秀雄への手紙(第一信)」(『群像』1991年8月号)

「愛憎のハニヤユタカ」(『鳩よ!』1991年9月号)

1992年(平成4年)32歳

4月、『メタフィジカ!』(法藏館

伊藤實と結婚。子供は絶対に産まないという条件だった。

伊藤實の父が日本財団理事長・笹川陽平の知人で、「哲学をやっている変わった女ですが、一度、是非、逢ってやって下さい」と言われ、会う。

ある日彼女は、白のブラウスに大柄な花模様のスカート姿で一人で現われた。美人であった。しかし、華やかな感じのする美人ではなかった。
哲学をするだけに、思慮深さそうな顔立ちは、あまり笑わなかったのが印象に残っている。勿論、私の話に興味がなくて笑わなかったのかも知れない。
「わたくし、哲学しか勉強していないのですが、将来如何でしょうか」といきなり切り込まれて、目を白黒させてしまった。(笹川陽平の2007年08月24日ブログより)

1994年(平成6年)34歳

9月、『考える人 口伝西洋哲学史』(中央公論社92年から93年に岩波書店「よむ」に掲載されたもの

10月、『帰ってきたソクラテス』(新潮社)新潮45』に連載された文章をまとめたもの

1995年(平成7年)35歳

7月、『オン! 埴谷雄高との形而上対話』(講談社

「俺のことをわからせてみろ」との御希望を、ある編集の方から頂戴したことがあったので、十年がかりで私はわからせてあげた。つまり、その阿呆な口を封じてさしあげたのである。(『私とは何か』より)

1996年(平成8年)36歳

4月、『悪妻に訊け 帰ってきたソクラテス』(新潮社)

11月、メタフィジカル・パンチ 形而上より愛を込めて』(文藝春秋『諸君!』95.1~96.6に連載した「形而上学的一撃」をまとめたもの

1997年(平成9年)37歳

1月、『睥睨するヘーゲル』(講談社

12月、『さよならソクラテス』(新潮社)

1998年(平成10年)38歳

3月、『残酷人生論 あるいは新世紀オラクル』(情報センター出版局)

4.8 4.3付の睦田真志からの手紙が『新潮45』編集部からFAXで転送されてくる。

睦田は、1970年生まれ、1995年12月、当時勤務していたSMクラブの経営者と店長を同僚二人と共謀して殺害した。凶器には手斧、ハンマー、バタフライナイフが使用され、二名の遺体は、茨城県鹿島港の海中にコンクリート詰めにして遺棄された。

拘置所で池田の著書を読み、エッセイを連載中の『新潮45』編集部に手紙を送った。

4.23 睦田に返信の手紙を書く。「サンデー毎日」のコラムで紹介する。

5.10 睦田から三通目の手紙(二通目は編集部気付)。

5.26 池田から二通目の手紙。死刑判決が下ったら控訴するよう勧める。

6.2 睦田から四通目の手紙。やはり控訴はしたくないと述べる。

6.5 睦田に死刑判決。

6.7 睦田から五通目の手紙。弁護士が行った控訴を取り下げる旨と、死刑確定後も連絡を取るために池田と籍を入れる(結婚、養子、義弟妹)ことを提案。

6.7 池田から三通目の手紙。「控訴しなさい」と命じる。

あなたが提案していた結婚や養子縁組という方法は、あり得ません。なぜなら、「語りたい」とあなたが思うから、「語らせてあげたい」と私が思うのであって、私があなたに語らせてもらうわけではないからです。それこそ本末転倒というものです。

6.8 池田と編集部が東京拘置所で睦田と面会。7日付の手紙はまだ互いのところに届いていなかった。睦田が自ら面会を途中で打ち切り、10分程度で終わる。

6.9 睦田から六通目の手紙。池田から面会の際に「あなたの考えには重大な誤りがある」と言われよく考えた結果、控訴取り下げはしないと書く。

7.12 睦田から七通目の手紙。

7.22 池田から四通目の手紙。

あなたはどうも、重大な勘違いに入りつつあるようです。…文章や文体の云々よりも、「心の構え」こそが問題なのです。そして、それは明らかに文章や文体に現れます。よくない傾向です。次回はちょっとキツイことを書きますので、覚悟していて下さい。あなたのためであり、みんなのためにです。あなたには戻ることができるはずと、信じています。くれぐれも、よく、反省して。

7.24 睦田から八通目の手紙。

7.31 池田から五通目の手紙。

禅の方で、「増上慢」もしくは「未徹在」という言い方があります。…「気づく」ことは実は易しく、それを「保つ」もしくは「為す」ことのほうがよほど難しいのだ、といった含みもありましょう。

「一瞬にして全てが見えた」とか、わかった、悟った、解脱した、と「思う」瞬間は、じつはそんなに珍しいことではないのです。そうではなく、「わかった」そのこと、絶対としてのその質を、この相対界、この人生において生きること、生き通すことの、いかに困難であることか。「悟後の修行」が大事です。「努力」という、古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、そのことです。…

これも妙な言い方ですが、死ぬ気で、書くこと。一字一句が、絶筆です。

いま一度、覚悟。

8.11 睦田から九通目の手紙。

8.25 池田から六通目の手紙。

あなたは、人と付き合うことで学ぶことができないので、一段と理知の側に走りがちですが、人の世は「愛」が基本ということを、常に思い出すよう心がけて下さい。そのへんのことも含めて書きます。どんどん送ってください。

9.1 池田から七通目の手紙。

春先に、あなたからの不意打ち的な一通の手紙が届いて以来、私はあなたでいっぱいです。なんかまるで、恋文に始まる大恋愛みたいですが、残念ながら、似て非なるもの、われわれの間で交わされているのは、惚れたハレたならぬ、生きるの死ぬのの打ち合いであります。武器は言葉、生かすも殺すも言葉次第とはまさにこのこと、鬼の池田晶子の活人剣も正念場と、友人たちも固唾を呑んでいますが、じっさい、こんなに大変だとは、じつは私も予想していませんでした。…乗りかかった船です。結果はどうあれ、最善を尽くすしか、ありません。

9.1 睦田から十通目の手紙。

9.4 池田から八通目の手紙。

9.7 睦田から十一通目の手紙。

9.19 睦田から十二通目の手紙。

10.15 池田から九通目の手紙。

自分の死は、なるほど他人事ですが、やっぱり他人事ではないのですよ。それが、われわれが生きて死ぬという、そのことなのですよ。だから、私が焦っているように、あなたも、うんと、焦って下さい。それが仁義というものです。

11.3 睦田から十三通目の手紙。

11.20 池田から十通目の手紙。

12月、『考える日々』(毎日新聞社サンデー毎日と月刊ボイスの連載をまとめたもの

1999年(平成11年)39歳

2月、『死と生きる 獄中哲学対話』(共著/新潮社)新潮45」1998.7~1999.1連載まとめ

4月、『魂を考える』(法藏館

12月、『考える日々II』(毎日新聞社

2000年(平成12年)40歳

12月、『考える日々Ⅲ』(毎日新聞社

2001年(平成13年)41歳

2月、『REMARK』(双葉社『小説推理』連載をまとめたもの

3月、『2001年哲学の旅』(新潮社)ハンス・ゲオルク・ガダマーとの対談収録

2002年(平成14年)42歳

2.12 作家佐藤亜紀が自分のHPに「まあ何と言おうか、例の哲学の巫女が……。」と題する文章を載せる。佐藤はそこで『中学生の教科書』第三集に採録されている佐藤亜紀の文章を削除するよう池田が出版社(四谷ラウンド)の編集者に圧力をかけたと述べた。

6月、『ロゴスに訊け』(角川書店本の旅人』誌に「わが闘争」のタイトルで連載されたものをまとめたもの

2003年(平成15年)43歳

3月、『14歳からの哲学-考えるための教科書』(トランスビュー、2003年)

対象はいちおう14歳の人、語り口もそのように工夫しましたが、内容的なレベルは少しも落としていません。落とせるはずがありません。なぜなら、ともに考えようとしているのは、万人もしくは人類に共通の「存在の謎」だからです。したがって、何らかの答えめいたものを教えているわけではないこの本を「教科書」と呼ぶのは、ひょっとしたらふさわしくないのかもしれませんが、子供とともに、生徒とともに、あるいは一人で、なお謎を考えて知りたいという意欲をおもちのいかなる年齢の人にも、何らかお役に立てるものと思っております。

3月、『あたりまえなことばかり』(トランスビュー、2003年)『季刊仏教』『草思』などに連載されたものを含むエッセイ集

愛犬のコリー「ダンディー」が死去(14歳8か月)。

2004年(平成16年)44歳

2月、『新・考えるヒント』(講談社

小林秀雄が好きである。何というのか、おいしいなあ、小林を味わうことは、すなわち人生を味わうことなのだとは、この歳になって、いよいよ深い実感である。

で、この「好き」が昂じて、いやむしろ病膏肓に入るというべきか、今回このようなものを書いてみた次第である。『新・考えるヒント』、言うまでもなく彼の『考えるヒント』の向こうを張るものである。いや「向こうを張る」というのは正確ではない。むしろ「上前をはねる」と言うべきか、いっそ堂々たる贋作と言った方がいいかもしれない。全十五篇のタイトルすべてを、彼のそれから拝借したものである。
「常識」から始まり、「言葉」「哲学」「歴史」「物」など、例の素っ気ないタイトルをそのまま、(なんと「還暦」まで入って)おしまい「無私の精神」まで、お借りして書き下ろしたものである。

7月、『41歳からの哲学』(新潮社)週刊新潮」連載の「死に方上手」を単行本化

再びコリー犬を飼い、「ダンディー」と名付ける。

2005年(平成17年)45歳

8月、『勝っても負けても 41歳からの哲学』(新潮社)週刊新潮」連載

2006年(平成18年)46歳

6月、『人生のほんとう』(トランスビューカルチャーセンターでの講演記録

夏、腎臓がんの手術を受ける。

やはり、生きようとする意志を積極的に肯定することが大切なのだと思う。私は今まで生に対する執着がないから仏になれると思っていた
けれども、生きることを全うしないと成仏しないのかもしれない、それに気づいてから前向きに病気と闘おうという気持ちになりました――

知人への手紙より

10月、『知ることより考えること』(新潮社)週刊新潮」連載のコラム「人間自身」

12月、『14歳の君へ どう考えどう生きるか』(毎日新聞社毎日中学生新聞の連載

12.14 週刊新潮の連載に「先月、父親が亡くなった…最後まで優しく明晰な人だった。現代版大往生のひとつの形だと思う」と書く

2007年(平成19年)

2.23 午後9時30分、腎臓がんのため逝去。享年46。

週刊新潮」連載の「人間自身」最終回「墓碑銘」は死後掲載となった。

(自分の墓碑銘について)それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。

3月、『君自身に還れ-知と信を巡る対話』(大峯顕との共著/本願寺出版社 

4月、『人間自身 考えることに終わりなく』(新潮社)週刊新潮の連載ほか

6月、『暮らしの哲学』(毎日新聞社サンデー毎日」の連載

2008年(平成20年)

6.17 睦田真志の死刑が執行される。死刑に際して最後の言葉は、「池田晶子さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」だったという。




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