埴谷雄高の『死霊』(文庫版Ⅰ~Ⅲ)を図書館で借りてみたはいいが、途中からだんだん〈似非悪霊〉という言葉が脳内にチラついてきて読み進めるのが難しくなってきたので、池田晶子『最後からひとりめの「埴谷雄高」論』(河出書房新社、1987年)を図書館で予約して借りて読んでみたら、冒頭から何が書いてあるのかサッパリ分からず意識を失ってしまった。
仕方なしに、もう一冊借りた方の『オン! 埴谷雄高との形而上対話』(講談社、1995年)を読み始めたら、冒頭の「埴谷家の応接室から」という文章がすごく面白くて、すべてのことが一遍に腑に落ちた。
つまり自分の了解において物事の順番としてはこうなる。
1984年頃、慶応大学哲学科を卒業した池田晶子は、外的生活としてはその美貌を生かしてモデルなんかをやりながら、その内面は「生きていることなどどうでもいい」状態で過ごしていた。それは投げやりとか捨て鉢とかいうことではなくて、自分が居て宇宙が在ることすなわち「存在」の謎をひたすらに思い詰めていたせいで、それ以外のことにはほとんど注意を向けられない内的生活を送っていたからである。
そのうち哲学書を読むだけでは飽き足らず、ひたすら独りで自分の頭の中で考え始めた。酒ばかり飲んで、「頭の後ろから煙が立っていた」。
そうしているうちに、「存在を了解した(あらわかっちゃった)」ような気分になった。
ちょうどその頃に『死霊』の第7章(『群像』1984年10月号)に出会った。

埴谷雄高はそれ以前から読んでいて、何となく気にはなっていたが、あまりの韜晦癖についていけずじっくり付き合おうという気になれなかった。
しかしこのときに『死霊』を読んで、「あれっ、おんなじことを考えている」と思った。
「在ることの謎」について考えるという「果てのないどんづまり」に取り組む埴谷の伝えようとしていることがダイレクトに理解できた。
埴谷は若い頃にドストエフスキーの『悪霊』を読んで「ドストエフスキーに睨まれた」と感じたというが、池田はこの時をもって「埴谷雄高に睨まれた」のであった。
文芸評論家たちの論評があまりにもアンポンタンなのに呆れ、恩師(木田元)から紹介された編集者の手引きで埴谷本人との邂逅が実現する。
晶子はその後に大喧嘩することになる編集者(当時『文藝』編集長だった高木有)と連れ立って、ある夏の一夜、吉祥寺にある埴谷邸を訪ねた―
つづく