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Incomprehensible Without a Lineage

文学をやる以上、自分の思ったことを書く以外にないわけですけれど、思ったことを書く以上、あとはすべてがしかたがないということですね。これは見方によっては、逆にすべてが具合の悪いことばかりといってもいいんですが、僕は敢えてそれを具合悪いというふうには思わない。というのは、つまり、考えて考えて書くことだけが自己目的で、そのあとは、発表できなくても仕方がない。そして、発表できて酷評されてもしかたがない。また、誉められても仕方がない。あるいは黙殺されても仕方がない、というふうに、どんなことが起こっても、仕方がないのですね。

埴谷雄高『情況』昭和50年(1975年)10月号 秋山駿との対談より)

 

映画岸辺露伴は動かない 懺悔室』のサントラの話は、いくつかの要因が錯綜していて、

「原作者の荒木飛呂彦がAI否定派なのに、その映画化に生成AIでつくった音楽を用いるのはけしからん」という人、

それに対して「いや、荒木飛呂彦はAIを全面的に否定しているわけではない。原作者の意図を誤解している」という人、

「そもそも生成AIで音楽を作るのは手抜きであってけしからん」という人、

それに対して「いや、生成AIを使う音楽制作は決して手抜きではなく、むしろ普通に制作するよりも/のとは異なる性質のクリエイティビティが要求されるのだ」という人、

「生成AIで作ったかどうかというよりも、それが優れた楽曲なのかどうかが重要なのだ(この映画のサントラ自体は優れているのだから問題ない)」という人、

「生成AIの中には著作権を侵害しているとして大手レコード会社から訴えられているSUNOやUDIOのようなソフトがあり、今回のサントラがそれらを用いて制作されているとしたら違法の可能性がある」という人、

「今回のサントラの制作者は過去にSUNOを用いていると公言しており、当然今回も使っているに違いない(その証拠に過去の発言を削除している)」という人、

「すべての作品は過去作品の模倣でありパクリなんだからそもそも音楽に著作権を設定すべきではない(からSUNOだろうか何だろうが全然オッケー)」という人、

「映画自体はよかったからどうでもいい」という人。

などなど色んな見解が入り乱れていて、簡単な解決というものはありそうにない。

映画興行主体の側としてはなるべく事を荒立てずに終わることが望ましいだろうから、これ以上の騒ぎにならないようひたすら沈黙することだろう。

個人的には、前にも書いたように、「音楽としていいかどうか」が全てであって、生成AIの音楽はいいと思えるものに未だ出会っていない。

何となく気の利いた雰囲気だけのものはあっても、真のクリエイティビティを感じさせるようなものはないし、今後もないだろうと思っている。

もちろんサントラやBGMとして機能的に優れた音楽を生み出すことはできることまでは否定しない。

 

文学で言えば、「ドグラ・マグラ」や「死霊」もどきの作品は書けても、真に読むに堪えるような小説は書けないだろう。

ましてや、ドストエフスキーの「悪霊」のような、百年先、二百年先を見通すようなスケールの大きな作品は決して書けないだろう。

シンギュラリティ恐れるに足りず。なぜならそこで問題になるのは常にコンピューター(機械)の能力ではなく、人間の能力とその限界そのものであるから。

という東浩紀の意見に共感する。




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