「半世界」同人たちの旅行のスナップ

田畑麦彦について考える時、どうしても戦前の詩人・尾形亀之助について連想せずにいられない。
二人とも資産家の親を持ち、青年で文学を志し理想主義的なロマンに燃えて同人誌を立ち上げるが、金があるのをいいことに仲間から散々たかられ、利用されて終わる(麦彦の場合そうとも言えないが)。両者とも晩年は世捨て人のように過ごした。
亀之助は麦彦とちがって事業を手掛ける(そして失敗する)ようなことはなく、専ら文学(詩)の世界を離れることはなかった。しかし詩集を3冊出した後は郷里の仙台に帰って市役所の役人として過ごし、最後はほとんど食べず自殺のように42歳で栄養失調で死んだ。麦彦は80歳まで生きている。
麦彦と亀之助を見ていると、実家が大金持ちであったせいなのか、金銭というものへの感覚が常人とちがっていたように思える。
一言で言えば、お金というものに対する徹底した軽蔑。さらに言えばお金の力に対する憎悪みたいなものを感じる。金に動かされてたまるか、人間は金銭のドレイではない、人はパンのみにて生くるにあらず、といったヤセ我慢的な矜持。
実家が金持ちであったことに終生負のコンプレックスを抱いていた太宰治にも通じるものがあるかもしれない。
自分なんかには到底分かり得ない感覚だが、どうもそうとしか思えないのである。
同様に、現実感覚というものが希薄で、観念の世界、夢とロマンの世界に生きている。
彼にとっては、観念世界の方が、目の前の現実よりもリアルなのである。
現実は彼にとって、いわばガラスにすぎなかった。それらは彼をとり囲み、彼はそれを見ることが出来るが、彼の求めているものはその向うにあった。彼の前に存在しているものが、一瞬にしてふッ飛び、彼の視野には何ものもなくなってしまう。その向う側だった。
田畑麦彦「明日への日没」文藝首都1951年10月
麦彦は、リルケ、ヘルダーリン、プルーストを好んだ。ドストエフスキーの『貧しき人びと』の冒頭で、中年の官吏マカール・ジェーヴシキンが、通りの向かいに住む少女ワーレンカが彼の送った花を見えるように飾ってくれたということだけでこの上ない幸福感に満たされたというエピソードの尊さを繰り返し語った。
ぼくが麦彦の文章で最も心を打たれたのは、若き女性作家・佐藤愛子を熱心に評した一文である。
私はこの作者の作品をこれで全部で4篇読んだ。その4篇とも、第一に感じたことは文章の達者なことだった。これはおそらく、私一人ではなく読者のほとんどが感じられることに違いない。ところで、私が第一にいいたいことは、この文章の達者さに対してである。いわば、達者すぎるということである。・・・
・・・一言にしていうなら、この作者の作品には、主張の面が非常に弱いということだ。・・・そしてまた、私は何らかの主張のない小説は価値のないものと思う。もっとも、この作品に何一つ主張がないとはいわない。ただ、作者は何か正面にぶつかるものがあると、無意識に―だと思う―表現の後ろに逃げてしまうのだ。で、私はこの作者に一つ思い切った提言をする。
まず第一に比喩とか形容詞とかを一切省いた小説を書いて見たまえ。もしそれを一切省いたら何も書くことがないと思ったら、その小説を書くのを少し待ってみたまえ。事実そんなときには、その小説は書くに値しないものだと思い給え。それらを一切除外して、なお書くことがあったなら、それこそ本当に書くに値することなのだ。
田畑麦彦「首都月評ー私の立場から」文藝首都1952年5月
麦彦は愛子の小説は「文章は達者だが主張(内容)がない」といった。皮肉にも愛子の小説に内容(書くに値すること)を与えたのは麦彦自身の人生なのであった。
愛子は、麦彦との結婚、麦彦によって振り回された波乱の日々、麦彦との離婚、麦彦との間に生まれた娘を題材に小説を書き続けた。それらの私小説は、彼女の創作小説と並んで、愛子の作家生活の柱となった。
麦彦は、自らを犠牲にして愛子に小説のネタを提供し続けたのだろうか。本人にその自覚はあったのだろうか。愛子は結局麦彦の掌の上で踊らされていたということなのか。
麦彦は、実生活というものを徹底的に軽蔑していた。そして実生活というものに至上の価値を置いているように見える愛子のこともおそらくまた。
もちろん実生活において徹底的に「軽蔑される」立場に置かれていたのは麦彦の方である。麦彦はあらゆる面で敗北者の烙印を押されるしかない人生を送ったといえる。
麦彦がただ一つ勝利したといえることがあるとすれば、彼に敗北者という烙印を押したあらゆる存在に対する微かな軽蔑の中にしかない。
それを昨今の「働いたら負けかなと思っている」ニートの矜持に準えて嘲笑するのもいい。麦彦はその烙印も嘲笑もすべて受け入れ、達観する境地に遂に至ったのだろうか。
よく、世の中で「言うは易く、行うは難し」という。そうして私はいま、プルーストについて何よりもよく、その偉大さを示すものは、まさにその言葉ではないかと思う。すなわち、プルーストは、その文学において何も言わなかったのではないか。プルーストはただ、それを行ったのではないか。もとよりプルーストのような文学的態度は余りにも現代においては贅沢であり、そしてまた非社会的であるということが出来るかもしれない。しかし、私はその反面、現代における多くの小説は、余りにも為すことなくして多くを語りすぎると思うのだ。社会性といい、時代性といい、それを語ることにあるのではない。書くということによって、書くということを真に一の行為たらしめることこそ、書くという行為に与えられた唯一の必然性ではないだろうか。なぜならば、文学者とは、いかに生くべきか、という問いの数多くある答えの中から、書くという行為を選び、そしてそれによってその問いに答えようとするところの唯一つの存在に他ならないからである。 1956.6.12
田畑麦彦「プルースト雑感」文藝首都1956年7月
2,3年前のある夜、新宿の酒場へゆく途中で田畑氏にささやきかけたことがある。
「奥さんがあんなに健筆ぶりをみせると、ご主人は批判の側に廻るしかないね」
すると田畑氏はニヤリと笑って、このように言ったものだ。
「いや、あんな小説と僕のとは、源氏鶏太とカフカほどの開きがある…」
源哲麿「田畑麦彦著『小鳥が歌をうたっている』について」文藝首都1965年7月
愛子の『晩鐘』の中で一番好きなエピソードは、麦彦が、彼の信奉者である「桑田」から、実家の母親が危篤であると知らされ、 これで貧乏生活から脱出できますねと言われて「ニヤーッ」と笑ったという話。実際読んでご覧あれ。
このことを書いた愛子こそが勝利者だと思えてならない。