佐藤愛子の私小説『晩鐘』を読み返しているが、ここに出てくる佐藤の元夫、田畑麦彦(作中では畑中辰彦)が何だか他人のように思えなくなっている。

観念的で理想主義者で、人間のことを知ろうとせず、己の考えに固執して突っ走るが余りにも世間知らずで他人に利用されて終わる。その度に妻(佐藤愛子)のもとを訪れて自分の行いを棚に上げて金を無心し借金の肩代わりを頼む。
おとなしく文学だけをやっていればよかったのかもしれないが、それはそれで妻や周囲の成功した作家のようにはなれず、鬱憤だけが溜まっていったかもしれない。
前半で描かれる同人誌『文藝首都』に集う若者たちのボヘミアン的な生き方には振り返れば泣けるような青春の日々が刻まれている。
麦彦が1951年に『文藝首都』に発表した『鋪道』という私小説は、今読んでもなかなかいい。
書き出しはこうだ。
温田暢利は、毎日のように、女を求めて、街をさ迷い歩いた。彼は女に飢えていた。そして、今までの歳月、一度も恋人をもったこともなく、否それどころか、女と本当に話らしい話さえしたことがないのを、悔やんでいた。こんなことが一体あり得るであろうか、二十六歳になる今日まで、女と話を交わしたことさえもないということが。温田はそう思って、自分の意気地なさを恥じていた。
その後の展開も含めて、西村賢太あたりが好きな人なら、けっこう気に入るのではないだろうか。
麦彦は、大実業家の父をもち、慶応大学に進み、何不自由なく育てられてきた。
しかし彼には四歳の時の小児マヒで左足に障害があり、そのために現実を不幸なものとみなす傾向があった。親や周囲から憐れみの目で見られることも耐え難かった。
彼は書くことの中に世界と折り合いをつける唯一の道を見出していった。
1952年に発表した『祭壇』という自叙伝的小説には、次のようなコメントが寄せられている。
中村真一郎「多くの日本の小説は、作者の思想をさりげない形で暗示する。しかし、この小説はひとつの思想を解明することだけに、勢力を集中しているのである。これだけ際だった小説は滅多にない。」
山本健吉「これは少年の小説である。プルーストの影響があろうが、プルースト的というのではない。私はこの小説のよさは、ディテールの真実さにあると思う。例えば第二部(ママ)主人公の「私」をいじめる有本と、「私」の親友である落合という低能児の殴り合いの場面など、巧まざるユーモアがある。おそらく、作者の自叙伝であろうか。私はこの作者の魂の清純さを感ずることができた。
麦彦の小説はひどく観念的で、ドストエフスキーの影響も感じさせる。
しかし麦彦は、「どうしても書かずにはいられなかった」自分の中の負の衝動を読者に言い聞かせるように語っている。そこには実存的な契機があるとはいえるが、いたずらに観念をこねくり回すことでその切実さがポーズのようになってしまっている。
麦彦は、同じ時期に『文藝首都』に作品を発表し高い評価を受けていた佐藤愛子の小説を「達者すぎる」「観念の掘り下げが足りない」と厳しく批判した。
この批判をまともに受け止めた愛子は、その後3年くらい何も書けなくなったという。
その期間に、二人は関係を深めていった。
愛子は麦彦を尊敬し、彼の語る観念的で高尚な言葉をまっすぐに受け入れた。麦彦は観念的思考への理解が足りない(と麦彦がみなした)愛子を一種の優越感をもって優しく受け入れた。
二人は1956年に結婚し、1960年に一女をもうける。
1957年には同人誌「半世界」を創刊。同人には北杜夫、川上宗薫、日沼倫太郎、宇能鴻一郎、原子朗、小池多米司、荘司重吉、津島青などが参加した。
麦彦は小説『嬰へ短調』で1962年、第1回文藝賞(中・短篇部門)を受賞し、愛子 1963年度の上半期に『ソクラテスの妻』で、下半期に『二人の女』で芥川賞候補となる。
つづく