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菊地成孔『刑事コロンボ研究 上』感想(5)

第1章 各論 

第1節 「パス概念」について

 

ここからいよいよ具体的な「コロンボ」各エピソードの分析に入る。

それは「パス」という新たな概念の提示から始まる。

著者が「新たなコロンボ批評視座の1つ」であり「当研究書上巻の核をなす重要事項」と呼ぶ「パス pass」概念とは何なのか?

 

この概念を紹介するにあたり、著者はまず我々の脳がもつ「補正機能」について触れる。我々は動画(テレビドラマ)を見るとき、無意識のうちに情報を修正し、秩序ある「現実」を再構成し続けている。こうした動画体験の蓄積によりいわば〈既視感の横溢〉とでも言うべき現象が生じる。

記憶された情報は経時変化と共に変容し、偽記憶を発生させ、偽記憶は記憶と混濁しては、再び鑑賞者の脳内に帰納され、結果として「既視感」を横溢させる。それが記憶からの紐付けなのか、偽記憶からの紐付けなのかの区別がない世界で、我々は現実と非現実の重合体に対する独特の自由を得る。

連続テレビドラマがもたらすこの〈既視感の横溢〉は、「夢」がもたらす多幸感に近い。そして「コロンボ」はこのような〈既視感の横溢〉を発生させる要素(ロケ地、主人公の風体、主人公の特徴的な言動、社会的地位の高さといった犯人の属性、犯罪から逮捕に至る基本的な筋書き〈倒叙性〉など)が桁違いに多いテレビドラマの一つである。

 

だが著者がここで新概念として提示する「パス」は、この脳の補正機能によって生じる〈既視感の横溢〉とは異質なところにある。なぜなら、「パス」は脳の補正機能をかいくぐるような形でのみ存在するからだ。

「パス」とはその字義どおり、「話と話をつなぐ要素」を意味する。しかしそれは分かりやすくはっきりした形で存在するのではなく、「身を隠して潜在し」、それゆえにサブリミナル的な効果を発揮する。

 

刑事コロンボ」シリーズは、じつは意外なほど連続性に欠けたところがある(著者はそれを「浮遊性」と呼ぶ)。例えば、コロンボ以外の警察関係者は話ごとにバラバラであり、いわば脇役が固定的でない。

にもかかわらず、シリーズを通して視聴者に安定的で継続的な印象を残すのは、各話をつないでいる「パス」の持つ潜在的なバランス機能によるものではないか、というのが著者の主張(仮説)である。

 

ちなみに、著者はこの「パス」という概念のヒントを精神分析ジャック・ラカンから得ている。

ラカンのいう「パス」というのは難解な概念であり、筆者も理解しているとはいえないので、松本卓也氏の以下の解説を引用させてもらう。

ラカンはある時期に国際精神分析協会というところから破門されているんですが、ラカンは国際精神分析協会の非常にヒエラルキー的な性質に批判をくわえるようになった。・・・それに対し、ラカンは1967年に「パス」という装置を提案したんです。この「パス」ラカンが何をやろうとしたかというと、「精神分析とは上から教わるものだ」という考えを逆転して、「最も若い分析家にこそ最も大きな可能性がある」という考えを行き渡らせようとしたのです。・・・

「パス」においてラカンが重視したのが特異性という概念でした。ラカンによれば、一人一人の分析経験は特異的であり、誰とも共有することはできない。しかし、その特異的な分析経験は伝達され、共有されることがありうる。こういう逆説をラカンは言っていたんですが、その伝達が起こったのかどうかを確かめる装置が「パス」だったんです。

具体的にどうするかというと、まず自分の分析経験が終わりに近づいている人物Aが、別の人物Bに自分の分析経験について話すんです。そして今度は、そのBが承認審査委員会というところで、Aの経験を話す。A本人は委員会に直接話をしないわけです。言ってしまえば伝言ゲームのようなものなのですが、こうした伝言ゲームを経ても、そのAの分析経験の特異性がちゃんと伝わるのかどうかを試す装置が「パス」だったのです。・・・

ラカンは分析家の語りは資本主義からの出口だと考えていました。「パス」の提案はまさにその実践だったのかもしれません。もっとも、その話はお互いに顔を知っているくらいの小さな分析家のグループには妥当するとしても、それが国家規模においても資本主義の出口だと言えるかどうかは別の話でしょう。しかし、ラカンは分析家のグループ内のローカルな革命だけをやることでいいと思っていたようなのです。そういうグループがあることによって、たぶん何らかの影響を世の中に与えられると考えていたのかもしれません。

この解釈に倣えば、コロンボ・シリーズにおける「パス」は、各話のもつ「特異性」(ひいては「コロンボ」というドラマ自体の特異性)を伝達していく装置であるということになるだろう(著者は本書でそこまで踏み込んだ議論はしていない)。

 

やけに観念的で抽象的な話になってしまったが、この概論に引き続いて展開される、シリーズ各話をつなぐ具体的な「パス」の指摘を読めば、著者の言わんとするところがもっとよく理解できたような気になるのではないだろうか。




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