1946年
1955年 9歳
2.14 インドのバンチガニにあるセント・ピーターズ・スクールに入学。寄宿制の学校のため単身で異国に渡ることになる。
インドで成長するなかで、僕は貧困をたくさん目にした。通りに出れば、そこには必ず物乞いがいる。そこで暮らしている人にとっては、それが人生なんだと信じることになる。
全寮制の学校が教えてくれることのひとつは、どうしたら自立できるのか、どうしたら誰にも頼らないでいられるのか。…僕にも幼くてウブな時代はあったんだよ。ある教師に恋をして、彼のためならなんだってできた。
1961年 15歳
春 ピアノを習い始める。初めてのバンド、ザ・ヘクティクスにピアノ、ボーカルで参加。
1962年 16歳
落第し、学校を去り、ザンジバルに戻る。
1963年 17歳
ザンジバル独立。スルタンを元首とするアラブ人政権誕生。
1964年 18歳
1.12 ザンジバル革命により、ウガンダ出身のオケロによりアラブ人政権転覆。スルタンなど数千人が国外亡命。
4月、タンガニーとザンジバルが合併し、タンザニア連合共和国成立。こうした事態の中、バルサラ家はイギリスに移住。カレッジ入学の単位取得のためアイルスワース工芸学校に入学。
1966年 20歳
春、工芸学校を優秀な成績で卒業。秋にはイーリング・カレッジ・オブ・アートに入学。
1968年頃 22歳
ブライアン・メイ、ロジャー・テイラーのバンド、レケッジに参加。
1970年 24歳
ヴォーカルのティム・スタッフィエルが脱退した「スマイル」に参加。グループ名を「クイーン」に変更する。
このバンドでは、僕だけがアート畑出身なんだ。ロジャーは生物学、ジョンは電子工学、ブライアンは物理学。みんな大学生で、良いキャリアを築ける可能性があった。そういう資格を全部捨て去る覚悟でやる以上、二番手に甘んじるつもりは一切なかった。とにかく一番になりたかった。僕らにならできると確信していた。音楽シーンと遊ぶんじゃない。よし、ロック業界に殴り込みをかけるぞ、絶対にやってやる―中途半端はなしだ、と宣言したんだ。
1971年 25歳
クイーンの1stアルバムのレコーディングの合間に、エンジニアのロビン・ケーブルの提案で、ラリー・ルレックス名義でソロ・シングルを発売するが、ほとんど話題にならず。
1973年 27歳
4月、英EMIと契約。
7.6 デビュー・シングル「炎のロックンロール Keep Yourself Alive」発売。チャート入りせず。
この当時のクイーンがどんなバンドなのか伝えるという意味では、「炎のロックンロール」はとても良いものだったね。
7.13 デビューアルバム「戦慄の王女」発売。英最高24位。
9.4 アメリカでアルバム発売。チャート83位。
10.9 アメリカでシングル発売。
11.12 モット・ザ・フープルの前座で全英ツアー開始。12.28まで26都市36回公演。
1974年 28歳
3.1 メインアクトとして初の全英ツアー開始。4.2まで22都市22回公演。
3.8 セカンドアルバム「クイーンⅡ」発売。最高5位。
このアルバムには深い意味もコンセプトもなかった。レコーディングの時点で直観的に思いついたんだ。「シンセサイザー無し」の但し書きはもともと洒落のつもりだった。いいかげんうんざりしていたからなんだけど。ブライアンはびっくりするようなサウンドをギターで再現していたんだけど、世間の人は、そんなはずはない!ギターじゃあんな音はでない、絶対にシンセだ、って言ってたからね。
3.25 日本でデビューアルバム発売。チャート52位。
4.9 アメリカでセカンドアルバム発売。49位。
4.16 モット・ザ・フープルの前座で全米ツアー開始。途中でブライアンが肝炎になり、途中でツアーをキャンセルして帰国。5.12まで14都市19回公演。
6.25 日本でセカンドアルバム発売。
10.11 「キラー・クイーン」発売。チャート2位。
「キラー・クイーン」は一晩で書いた。自慢とかそういうのじゃなくて、あれは本当にポンと、収まるべきところに収まったんだ。たいていは曲が先にできるんだけど、あのときは歌詞が先だった。高級コールガールの歌。上品な人も娼婦になりうるという。
10.21 アメリカで「キラー・クイーン」発売、12位。
11.8 サードアルバム「シア・ハート・アタック」発売。42週間チャート入りし、最高位2位。
「Now I'm Here」はブライアンが書いた曲で、「キラー・クイーン」といいコントラストだった。クイーンはまだロックできると見事に証明できた―ロックのルーツを忘れちゃいないぞと。それにライブ映えもする。あれをステージでやるのは楽しかったな
11.12 アメリカ発売、12位。
12.21 日本発売、23位。
1975年 29歳
2.25 日本で「キラー・クイーン」発売。
4.17 初来日公演。4.19から5.1まで7都市8公演。
4.19 日本武道館
4.22 愛知体育館
4.23 神戸国際会館
4.25 九電記念体育館(福岡)
4.28 岡山体育館
4.30 横浜文化体育館
5.1 日本武道館
日本を回るのは毎回楽しかったなあ、特にあのゲイシャガールたちと一緒だと―それとボーイズとも。すべてが最高だった。ライフスタイルも、人も、アートも。素晴らしい!明日にでも戻りたいよ。着陸してすぐに、これはものすごいことになるとわかった。空港の建物に入ったときは、耳を疑ったね。フライト情報のアナウンスを全部止めて、僕らの音楽を流してくれてたんだ。最初からファンで一杯の国に足を踏み入れるあの感覚にはたまらないものがあるし、その瞬間にみんな、なんとか期待に応えたいと心から思ったんだ。当時日本では『クイーンⅡ』が年間最優秀アルバムで、それで僕らが着いた瞬間、キャーッって。空港中が大騒ぎで、ボディガードが大勢いて、まさに昔のビートルズの頃みたいだった。組織もうっとりするほどしっかりしていたし、とにかく何もかもが最高だった。警護まで付けてもらったんだ。ホテルのロビーにさえも降りられなかったからね―サインを待ってくれてる、本当にいい人たちで溢れてたんだ。4人それぞれにボディーガードが付いてくれて、僕の担当はヒタミ(伊丹)さんといった。警備会社の東京パトロールの社長さんで、彼の仕事はツアーの間僕を手厚くもてなして、僕の身体に危害がないようにすること。とっても優しい人でね、からいらしい日本のランタンもくれたんだ。今も大切にしてるよ。
(東京パトロール伊丹久夫氏インタビューより)
僕が今まで仕事をした人の中で、一番感動をもらったのはフレディさんなんです。通常、ツアーの仕事の場合、コンサート会場とホテルの間だけなのですね。ところがフレディさんの場合、必ず観光というかショッピングに行きますからね。そこで焼き物やら漆器やら織物やらについて説明を受けるわけです。フレディさんの買い物狂いは4度目の来日からですね。一回に使うお金が、700万とか800万とかになりました。フレディさんは日本の美術品や骨董を取り上げている雑誌を読んでいたらしくて、毎回、日本に行ったらこれを買おうと決めてきていましたね。新宿二丁目は、最初の頃は、ニューハーフのお店にショーを見に行っていましたね。六本木、歌舞伎町、新宿二丁目で、ショーの時間に合わせて、はしごをして見ていました。でも後半の来日には、女装の男性がいる店ではなく、普通のゲイバーに行っていました。ファンにそういうことが知られるとまずいと思って、最初の頃は、ついてくるなと追い返していましたけど、後半になると、もうファンにもそういうことはバレていました。日本を発つとき、フレディさんからカルティエのライターをいただきました。びっくりしましたね。警護した相手からそんなに高価なものをもらったことはありませんでした。でもそのライターは飛行機でなくしてしまったのです。急いで同じもの買いに行きましたけどね。次に来た時に持ってないといけないと思って。
5.22 「キラー・クイーン」作曲者として英国作曲家協会賞を受ける。
8月、トライデントと別れ、自分たちの会社「クイーン・プロダクション」設立。マネージャーはジョン・リード。
10.31 「ボヘミアン・ラプソディ」発売。
「ラプソディ」ではかなり頭をひねった。あれは無からポンと生まれたものじゃない。ある種の曲は、ああいう壮麗で豪華な様式を必要とするんだ。それこそ狂ったように働いたよ。とにかく、あの類の曲をものにしたいという一心でね。あれに匹敵するものは、誰にも創れない。クイーンサウンドの要素であるあの繊細さを出すには、ブライアンとロジャーの声が欠かせない。「ボヘミアン・ラプソディ」は多くの人からぼろくそに言われた。でもあれを誰と比べられる?という話さ。
11.21 4thアルバム「オペラ座の夜」発売。50週間チャート入り、最高位1位。
簡単に言えばクイーンの最高傑作のひとつ。レコーディング期間も長かった。
12.2 アメリカで発売、4位。
12.21 日本発売、9位。
1976年 30歳
エディ・ハウエルの「マンハッタン・ドリーム」をプロデュース、ピアノも弾く。
1月、「ボヘミアン・ラプソディ」作曲者として二度目の英国作曲家協会賞。
3月、二度目の来日公演。3.22~4.4 6都市11公演。
3.22 日本武道館
3.23 愛知体育館
3.24 姫路厚生年金会館
3.26 九電記念体育館(福岡)昼夜2回公演
3.29 大阪厚生年金会館 昼夜2回公演
3.31 日本武道館
4.1 日本武道館
4.2 宮城県スポーツ・センター
4.4 日大講堂(東京)
9.18 ロンドンのハイド・パークで無料コンサート。
11.12 「Somebody To Love」発売。2位。
とにかくアレサ・フランクリン的なモードで書いてみたかったんだ。彼女の昔のアルバムにあった、ゴスペル路線のアプローチに触発されたんだよ。
12.10 5thアルバム「華麗なるレース」発売。24週間チャート入り、最高1位。
12.10 アメリカと日本で「Somebody To Love」発売。アメリカ13位。
12.18 アルバム、アメリカ発売。5位。
1977年 31歳
1.9 アルバム日本発売。1位。
10.7 「伝説のチャンピオン」発売。2位。
書きながらフットボールのことを思っていた。みんなが参加できる曲、ファンがひとつになれるようなものにしたかった。みんなが一緒に歌えるフットボールのチャント(応援歌)が書きたかったんだよ
10.25 アメリカで「We Will Rock You」と両A面で発売。4位。
10.28 6th「世界に捧ぐ」発売。20週間チャート入り、最高位4位。
11.1 アルバム全米発売、3位。
11.25 日本発売、3位。日本で「伝説のチャンピオン」発売。
1978年 32歳
ピーター・ストレイカー「ティズ・ワンズ・オン・ミー」をロイ・トーマス・ベイカーと共同プロデュース。
1月、クイーン・ミュージック、クイーン・フィルムの2会社を設立。ジョン・リードのオフィスから離れ、自らのマネージメントに乗り出す。
11.10 7th「ジャズ」発売。27週間チャート入り、最高位2位。
「ジャズ」という言葉はあらゆる意味に取れる。それこそ戯言から、でたらめ、音楽までね(笑)政治的な中身やメッセージに巻き込まれたくなかったんだよ。
11.24 全米発売、6位。
11.25 日本発売、5位。
1979年 33歳
4月、三度目の来日。4.13~5.6 8都市15回公演。
4.13 日本武道館
4.14 日本武道館
4.19 大阪フェスティバル・ホール
4.20 大阪フェスティバル・ホール
4.21 実践倫理記念会館(金沢)
4.23~25 日本武道館
4.27 神戸中央体育館
4.28 名古屋国際展示場
4.30 九電記念体育館(福岡)
5.1 九電記念体育館(福岡)
5.2 山口県立体育館
5.5~6 真駒内スポーツ・アリーナ(札幌)
6.22 8th「ライヴ・キラーズ」発売。27週間、最高3位。
6.25 日本発売、9位。
6.26 全米発売、16位。
10.5 「愛という名の欲望」発売。
この曲はお風呂で作った。5分か10分で。スタジオではサイドギターを弾いた。僕はギターが弾けなくてコードを2つか3つしか知らないんだけど、その制限がかえっていい訓練になるんだ。だって狭い枠組みの中で曲を書かないといけないわけだから。
1980年 34歳
6.30 9th「ザ・ゲーム」英米同時発売。イギリスでは18週間、最高1位。アメリカで初の1位を獲得。
7.21 日本発売。最高5位。
12.8 サウンドトラック「フラッシュ・ゴードン」発売。15週間、最高10位。
1981年 35歳
1.25 日本発売、12位。
1.27 全米発売、23位。
2月、4度目の来日。2.12~2.18 東京5回公演。
2.12、13、16,17,18 日本武道館
2.28 初の南米ツアー開始。3.21までアルゼンチン、ブラジルで7回公演。
11.2 11th「グレイテスト・ヒッツ」発売。
11.24、25 カナダのモントリオールでフィルム撮影のためライブ。「We Will Rock You」として発売される。
1982年 36歳
5.21 12th「ホット・スペース」発売。19週間、4位
このアルバムは、いつにもまして僕だった―あのモチベーションは僕から出たものなんだ。
5.23 日本発売、6位
5.25 全米発売、22位
10月、5度目の来日。5都市6公演。滞在中のインタビューで、クイーンとしての活動を半年間休止すると発表。
10.19、20 九電記念体育館(福岡)
10.24 阪急西宮球場
10.26 名古屋国際展示場
10.29 道立産業共進会場(札幌)
11.3 西武ライオンズ球場
1983年 37歳
ルチアーノ・パヴァロッティの「仮面舞踏会」を見に行き、出演していたモンセラ・カバリエに魅了される。
1984年 38歳
2.27 13thアルバム「ザ・ワークス」発売。93週間、最高2位。
このアルバムではブライアンと一曲共作したんだ(「悲しい世界」)・・・日食が起きるかもね(笑)
2.28 全米、23位。
3.16 日本、7位。
9.10 ソロ・シングル「ラブ・キルズ」発売。10位。ジョルジョ・モローダーの映画「メトロポリス」のサントラに収録。
9.11 全米発売。
10.3 日本発売。
1985年 39歳
1月、ブラジルで「ロック・イン・リオ」に出演。12日と19日のメイン・アクトを務める。
4.8 ソロ・シングル「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」発売。11位。
4.13 ニュージーランド、オーストラリア・ツアー開始。4.29まで3都市9回公演。
4.23 「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」全米発売。
4.29 ソロ・アルバム「Mr.バッド・ガイ」発売。6位。
5月、6度目、最後の日本ツアー。3都市5回公演。
5.7 「Mr.バッド・ガイ」全米発売。
5.8、9 日本武道館
5.11 国立代々木競技場
5.13 愛知県体育館
5.15 大阪城ホール
5.21 「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」日本発売。ノエビア化粧品のCMに使われる。
6.1 「Mr.バッド・ガイ」日本発売。
7.1 ソロ・シングル「メイド・イン・ヘブン」発売。全英57位。
7.2 ソロ・シングル「Living On My Own」全米発売。
7.13 ロンドン、ウェンブリー・スタジアムでライブ・エイド出演。
8.26 「メイド・イン・ヘブン」日本発売。
9.2 ソロ・シングル「Living On My Own」全英発売。
ミュンヘンで開かれた誕生パーティの模様を撮影したPVがアメリカで放送禁止となる。
11.4 クイーンのシングル「ワン・ビジョン」発売。7位。
11.18 ソロ・シングル「明日なき愛」発売。76位。
11.20 「ワン・ビジョン」アメリカ発売
12.5 「ワン・ビジョン」日本発売。ボックスセット発売。
1986年 40歳
ビリー・スクワイア「イナフ・イズ・イナフ」に参加。
5.6 ソロ・シングル「タイム」発売。クリフ・リチャード主演ミュージカル「タイム」に提供した曲。
6.2 14th「カインド・オブ・マジック」発売。63週間、1位。
6.3 全米発売。46位。
6.9 日本発売。25位。
6.7 ヨーロッパ・全英ツアー開始。最大にして最後のツアーとなる。8.9まで20都市26回公演。
9月~10月、プライベートで来日。
12.1 15th「ライヴ・マジック」発売。44週間、最高3位。
12.20 日本発売、49位。
1987年 41歳
2.23 ソロ・シングル「ザ・グレート・プリテンダー」発売。4位。
3.3 全米発売。
4.15 アイヴァー・ノヴェロ(英国作曲家賞)特別賞受賞。
5.1 「ザ・グレート・プリテンダー」日本発売。
5月、ロジャー・テイラーが新バンド「ザ・クロス」結成。
10.10 モンセラ・カバリエとのシングル「バルセロナ」発売。8位。
11月、ザ・クロスの1stアルバムの「ヘブン・フォー・エブリワン」に参加。
12.10 「バルセロナ」日本発売。
1988年 42歳
10.10 モンセラ・カバリエとのアルバム「バルセロナ」発売。15位。
電話で彼女から、ふたりの声がひとつになる感じが大好きだと言ってもらえたときは・・・もうお尻から肘の先まで、ニコニコしっぱなしだった
10.24 シングル「ゴールデン・ボーイ」発売。80位。
11.16 アルバム「バルセロナ」日本発売。
1989年 43歳
1.23 モンセラ・カバリエとのシングル「How Can I Go On」発売。95位。
5.22 クイーン16th「ザ・ミラクル」発売。これまで個人名義だったクレジットを全曲「クイーン」で統一。37週間、最高位1位。英EMIはこれ以降、パーロフォン・レーベルからアルバムを発売する。
「ザ・ミラクル」は、まあうまく行ったね、ただし殴り合いはいろいろとあったけど。
6.6 全米発売、24位。
6.9 日本発売、23位。
6.19 シングル「ブレイクスルー」発売。7位。
6.28 全米発売、チャート入りせず
8.7 シングル「インビジブル・マン」発売。12位。
10.11 全米発売。チャート入りせず
11.27 シングル「ザ・ミラクル」発売。21位。
12.4 1973年のBBCセッション音源「女王凱旋!戦慄のライヴ・クイーン」発売。
1990年 44歳
2.18 英国音楽業界に対する貢献と業績を称えられ、BPI賞を受賞。
1991年 45歳
1.30 17th「Innuendo」日本先行発売。17位。
このアルバムのボーカルには満足している。「イニュエンドウ」は僕がよくスクラブルで使う単語のひとつー僕はスクラブルの鬼なんだ(笑)。クイーンにはまさに完璧なタイトルだね。
2.4 全英発売。37週間、最高位1位。
2.5 全米発売、30位・
10.28 18th「グレイテスト・ヒッツVol.2」発売。112週間、最高位1位。
11.6 日本発売、65位。
11.23 HIV陽性であることを公表。
11.24 ロンドンの自宅で死去。享年45歳。
僕はロックスターになりたいんじゃない。
伝説になりたいんだ
フレディ