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詰むも詰まぬも夢まぼろし

詰将棋と指将棋は、同じ将棋のルールを用いているという以外、まったく別世界に属するものだといってよい。言ってみれば、指し将棋は勝ち負けを追求する勝負の世界であるのに対し、詰将棋は詰め上がりまでの必然的な手順の美しさを追求する美学の世界である。

ただ詰むというだけでは意味がない。詰むまでの手順、詰みに結びつく一手の感動が詰将棋の本質であり、それは芸術の一種と言える。

江戸時代の名人伊藤宗看(そうかん)による詰将棋図式集将棋無双(またの名を『詰むや詰まざるや』)と、彼の弟である伊藤看寿(かんじゅ)の『将棋図巧』は、詰将棋の最高峰であり、バイブルと言われている。

詰将棋作家としても知られる棋士内藤國雄は、小学生時代に『将棋図巧』第1番を見て、その手順の美しさに感動し、指将棋よりも先に詰将棋の創作の世界に目覚めたという。

解答手順を並べた時の驚き。わずか81の盤上で、こんなにもスケールが大きく格調の高いものを作り出すことができるのか! 身ぶるいするほど強烈な感動が体を貫いた。何の先入観もなく、神品ともいうべき傑作にいきなり接した感動がその後の私の人生に大きな影響を与えた。この作品に出会わなければ棋士にはならず、全然別の人生を歩んでいただろう。『将棋図巧』には百題が掲載されている。その作品が余りに優れていたため、幕府から3年の閉門を仰せつかったという伝説まである。…

看寿によって詰将棋が独自の世界、いわば芸術の世界が開かれたということが出来る。

内藤國男『図式百番』まえがき より

自分はせいぜい7手詰や9手詰くらいでウンウン言っているレベルなので、こうした深遠な作品を解く楽しみを味わうには至っていないが、手順を並べるだけでも感動する。

詰将棋は美の追求であると同時に、現実世界(指将棋)では出現しないアイディアを実現させる、空想と遊びの世界でもある。

やはり江戸時代の詰将棋作家であり、数学者でもあった久留島喜内という人の作品(『将棋妙案』)などは、手順を並べているだけで思わず笑みがこぼれるようなイマジネーションに溢れていて、当時の人々の豊かな内面世界を窺わせるものだ。

さて、指将棋においては、すでにコンピュータ(人工知能、AI)が人間(プロ棋士)を凌駕したことが明らかになっている。ただ勝負に勝つ、という観点からすれば、計算能力でコンピュータに敵うはずがない。

詰将棋の解答能力については、指将棋よりもずっと先に、コンピュータは人間を圧倒的に凌駕していた。何せ、百手を超える詰将棋を、ものの1,2秒で解いてしまうのだから。

しかし、コンピュータが詰将棋を創作できるか、という問題はまだ残っている。
もちろん、ただ詰めるだけの問題ならいくらでも作れるだろう。しかし、人を感動させる手順や、思わず息を呑むような意外性のある一手を生み出せるかどうか、となると話は別である。

これは、人工知能がバッハやベートーベンを超える音楽を生み出せるか、レオナルドやレンブラントを超える絵画を描けるか、という問題にも通じることだ。

結局、人間にとって最後の領域は、表現=美というところにしかない、ということが、AIの発達によって逆説的に明瞭になりつつある。

それは芸術に限らない。日々の生活、人間のあらゆる営為において、美を宿しうるような表現を創造すること、これが人類にとっての唯一の可能性なのだという確信を、詰将棋を並べながら独り実感する日々だったりする。

前述のとおり、『無双』と『図巧』を頂点にして、江戸時代に詰将棋の作品のクオリティは途方もない高みに達したのだが、昭和の戦後期にも再び多くの優れた詰将棋作家が出現した。

そんな中の一人、駒場和男による『ゆめまぼろし百番』は、驚嘆すべき作品集である。

すべての作品が、本当に人間が考えたのだろうかと思うほどの魔術的な手順のオンパレード。このような作品は、もちろんAIにも作れまい。

この作品の凄さを語るには自分では余りに非力なので、現代を代表する詰将棋作家・若島正氏による書評を転載する。

若島正・評 『ゆめまぼろし百番』=駒場和男・著

詰将棋の「長篇小説家」が作った芸術

 詰将棋のことを、ふつう新聞などでは「詰め将棋」と「め」を送って表記する。ところが、そのような表記に絶対従わず、「詰将棋」としか書かないような世界をご存知だろうか。新聞や雑誌に載っている、「十分で解ければ初段」といった実力認定が付けられている、通勤電車の中で考えるのにちょうどいい、手頃な頭の体操になるもの。そんな一般向きの詰め将棋とはまったく別の、詰将棋をご存知だろうか。

 わたしがそういう詰将棋の別世界を知ったのは、小学生のときだった。詰将棋の問題集を買って読んでいたら、その著者が不思議なことを書いていたのである。著者は病院で療養中だ。ベッドの中で詰将棋を作る。詰将棋を作ると熱が上がるので、看護婦さんに止められている。ところが、熱が上がるとわかっていても、詰将棋を作ることがやめられない……。

 人を狂わせる魔力が詰将棋にひそんでいることを、初めて知ったのはそのときだ。そして、与えられた問題を解くだけではなく、詰将棋を創作することに魂を奪われた人たちがいることも。

 高度な詰将棋は、人智の限りを尽くした芸術作品に近づく。その最もよく知られている例が、江戸時代の将棋家元である伊藤看寿が著した『将棋図巧』および伊藤宗看の『将棋無双』という、それぞれ百番の詰将棋を収めた作品集である。読みの訓練のために、この『図巧』と『無双』に取り組んでみるプロの将棋指しが多いという話があるほど、この二つの作品集は難しいことで有名だ。

 昭和に入って、詰将棋の世界が華やかな進歩を遂げ、アマチュア詰将棋作家たちが輩出したとき、彼らがまず目標にしたのは看寿と宗看であり、『図巧』や『無双』を超えることであった。ここで取り上げる、昭和を代表する詰将棋作家である駒場和男の『ゆめまぼろし百番』は、そのような夢を実現した、後世に伝えられるべき作品集である。その名前からし詰将棋を作るために生まれてきたような男、しばしば「詰将棋の鬼」と謳(うた)われることもある駒場和男は、中学生の頃から詰将棋に没頭しはじめて、作図歴は約六十年。ここ十年ほど、この作品集を完成させるために心血を注いでいたという。

 詰将棋とは、将棋盤と駒で描いた物語である。『ゆめまぼろし百番』に収められた作品を鑑賞し、作者の解説を読んでいると、そのことがよくわかる。だから、詰将棋を作ることは、小説を書くこととよく似ている。詰将棋を作る人間は「詰将棋作家」と呼ばれるし、詰将棋にも「短篇」や「中篇」や「長篇」という分類があったりするのである。本書の百局のうち、およそ四分の三が「長篇」なので、作者はいわば根っからの長篇小説家、物語作者なのだ。駒場和男はこう書く。「思えば詰将棋とは私の場合、いったい何であったのか。39枚の駒と81格の盤面、それは旅回り一座のごときであった。私は座付作者で、もしかするとエンターテイメントを目指していたのかもしれぬ。駒にはそれぞれ個性がある。大事なのは一体感である。私はなるべく多くの駒を使うようにした。わけへだてなく。そこから一体感は生まれるはずだし、そしてそれこそ美、美であって欲しいと願いながら」

 今後、将来の名人を目指す人間は、『図巧』と『無双』に加えて、この『ゆめまぼろし百番』を自力で解くことが必修科目になるだろう。いやそれだけではない。本書を繙(ひもと)き、駒場和男の思考の軌跡をつぶさに追う者はみな、盤と駒が生み出す妖(あや)しい魔術に驚嘆し、詰将棋という「ゆめまぼろし」の芸術に一生を捧げても惜しくないと思うだろう。

詰将棋の創作に熱中するあまり、煙詰(盤上一杯の駒が詰め上がりに必要最小限の駒を残して全て消えてしまうという詰将棋作品)を完成させた頃にミス東京と呼ばれた女房に逃げられ、「煙詰め できたときには 妻も消え」という句が詠まれたという駒場和男。

そんな彼の遺したメッセージが、『ゆめまぼろし百番』という詰将棋作品集の中に収められている。その作品には、確かに、人間の魂と呼ぶしかないものが宿っている。

「無双・図巧は後世へメッセージを発信し続けている。それは受信者が居るからである。私も後世へメッセージを発信したい。受信者が居ると信じて。文面はこうである。

詰むや 詰まざるや

詰まざるや 詰むや

この繰り返し とこしえに」

駒場和男)




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