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想像力とは

先週、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読み、宇野が東浩紀を批判しているのを興味深く思ったので、「ゼロ想」(2008)の翌年に出版され、宇野が編集協力している「思想地図ヴォリューム4」を読んでみることにした。

座談会「物語とアニメーションの未来」は、東・宇野を含む5人が業界的な視点を交えながらアニメ作品の現状を語るというもので、元々アニメには興味がない上に、東と宇野が解釈を巡って議論を戦わせるわけでもなく、ほとんど読むところのない内容だった。

せっかく「ゼロ想」であれだけ東を手厳しく批判しているのだから、直接「あなたの認識は時代遅れだ」と言えばいいのにと思うが、空気を読んで迎合的なことばかり言っているからつまらない。

もう一つの座談会「村上春樹ミニマリズムの時代」は、村上春樹には興味がないがアニメよりはマシか、と思いながら読み始める。

最初に東が、この20年、主流の文芸評論家が語る文学史、また文学や批評についての考え方には大きな偏りがあったのではないか、もしそうだとすればその偏りをこれからどう乗り越えていけばよいのか、そんな問題を村上春樹の新作「IQ84」を出発点として議論したい、と前置きを述べる。

宇野は、「IQ84」は「ねじまき鳥クロニクル」のモチーフの中から図式的でわかりやすいところだけを抜き出して整理しているに過ぎず、村上は後退し続けている、とした上で、村上のアンテナは決定的に鈍ってしまっており、ゼロ年代の想像力に追いついていない、と批判する。村上春樹に仮託しての東批判とも読める。

だが東はこの問題提起に正面から応答せず、「IQ84」が初の三人称小説であるとか村上の「35才問題」などといったところに論点をずらしてしまう。その後も(自分から見れば)アサッテの議論が続いてつまらない。その後もピンチョンの話などが出てきてますますどうでもよくなっていき、最後は何となく東がまとめて終わる。全然物足りない。

次に宇野が「ポスト・ゼロ年代の想像力」という論考を書いている。驚くべきことに、ここで宇野は東批判を完全に封印してしまっており、「筆者の『ゼロ年代の想像力』における批判は東よりもむしろ東理論を用いてセカイ系想像力を擁護する広義の東フォロワーに向けられている」などと日和ったことを書いている。

さらに東の「民主主義2.0」というモデルを「ハイブリッドな想像力=ポスト・ゼロ年代の想像力」と呼んで、「来るべき社会と表現のモデルとなり得る新しい形態を獲得しつつある」などと称賛するに及んでは、2011.3.11後の世界を知っている現在の我々の視点を割り引いても失笑するしかない。

続く座談会「変容する『政治性』のゆくえ」では宮崎哲弥を迎え、宮崎が東と宇野に対して「リアルポリティクスの問題に届かない抽象的な議論ばかりしている君たちはどうなんだ」的な鋭い質問を投げかけているのに感心した。

「あえて挑発的にいえば、東さんの世代やそれ以降の世代のインテリさん達は、自分のシマを守りすぎている。地面に半径1メートルくらいの円を描いて、よほどのことがない限りそこから出て行こうとしない。」

宮崎のこうした挑発にせっつかれる形で、「政治性」をめぐる議論がやや活発になる気配を見せる。ここから先はなかなかお互いの率直なところが出て興味深く読めた。

しかし全体としては、この「思想地図」に宇野が共同編集として加わった意義がよくわからない内容であった。今更言っても仕方のないことだが、「ニッポンの思想」の活性化のためには、中途半端に「想像力」などと言って手を組むより、距離を取って徹底的にやり合う方がよかったのではないか(その後距離は取ったようだが)。

2011年のツイッター上の罵り合いはちょっと読んだが、本当にただの口喧嘩で、日本を代表する批評家(笑)同士のやり取りがあれで終わってしまったのだとしたらトホホという感想しかない。




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