社会契約において市民は自由であるように強制される
(ルソー「社会契約論」第1編第7章)
社会契約というものを要約すると、次のようなことになるとルソーは言っている。
「われわれ各人は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとる。」
ルソーが「社会契約論」(1762年)を執筆したのは、ホッブスに代表されるような、絶対君主制を正当化する「服従契約説」を否定するためであった。
服従契約説とは、支配者と人民との間に結ばれる契約であり、支配の義務と服従の義務を要素とする双務契約である。だがそのようなものはナンセンスだとルソーは言った。簡単に言えば、ジャイアンがのび太に対して「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」と言っているのと変わらないからだ。
つまり社会契約とは特定の個人(たち)が原理的に他の人々に優先する権利を持つような片務契約ではなく、全員一致による約束(合意)でなければならない。そのような合意は、単なる個別的な意志の集合(全体意志)とは別の「一般意志」の存在を前提とする。
一般意志は常に正しい。それは常に全構成員にとっての利益を目指すものであり、原理的に誤ることがない。それは一時的に私的な利害によって打ち負かされることはあっても破壊することはできない。したがって一般意志(=法)の執行者である統治者ががその構成員に対して「死ね」と命じるならば、死ななければならない。
東浩紀は「訂正可能性の哲学」(2023年)の中で、そのようなルソーの「一般意志」概念が民主主義を歪ませ、独裁政治を正当化してきた歴史の教訓を踏まえ、来るべき人工知能民主主義の危険性にも警告しながら、ルソーの読み替えを主張している。
ルソーは、すべての人間は自由なものとして生まれるが社会によって奴隷にされる現実を見て、人間が奴隷とならないような社会があるのかを突き詰めた結果、「社会契約」という結論に達した。
しかし当然ながら、歴史上において社会契約によって成立した共同体も国家も存在しない。それは一つの思考実験であり、一般意志というのもフィクションにすぎない。ルソーの面白いところは、公共善としての一般意志は人々の議論の中から生じるようなものではなく、一つの事物のように客観的な存在としてあると言い切った点にある。すなわちそれは社会契約が成立した時点で生じるモノであって、それが正しいことに議論の余地はなく、あとはそれに従うかどうかだけだというのである。