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生きられるものとしての批評

今日も一日中柄谷行人。「反文学論」「批評とポスト・モダン」「ヒューモアとしての唯物論」。

妻の冥王まさ子が翻訳しているルドルフ・シュタイナー「魂の隠れた深み」も借りて、後書きだけ読む。このあとがきを書いたのが1994年夏で、翌年の夏に亡くなっている。

2年前からカリフォルニア州立大学の心理学科に在籍し、その後サクラメントにあるシュタイナー・カレッジに通っていると書いてある。

「反文学論」は1977年に書いた文芸時評の連載をまとめたもので、百人近い現役作家を俎上に載せている。今は読むのが困難な作品も結構ある。当然辛口な批評も多いが、意外と好意的な批評もある。田中小実昌津島佑子など高く評価されているのはさもありなんという感じ。

大江健三郎にはきびしい。この数年後に文芸時評を連載した吉本隆明の「空虚としての主題」と読み比べても興味深いと思った。

2016年に岩波新書からでた「憲法の無意識」も読んだが、「トランスクリティーク」以後の柄谷は、あらかじめ設定された枠組みに沿った形の思考しかしておらず、初期とはまるで別人のようだと言うことがよくわかる。

「探究1」の前に「転回」があり、1998年の「交換様式」の発見以降はもう定型的な思考しかしなくなっている。東浩紀との決裂の時期と重なる。

方法や理論としての批評しかできなくなった時、批評家は死ぬ、と「批評とポスト・モダン」には書かれている。多分柄谷が批評的に一番鋭かったのはこの頃だろう。

もう終わった批評家の仕事に付き合うのもそろそろ終わりにしたいのだが、一通り納得いくところまで読まないと気が済まないので。




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