「内省と遡行」に関して言えば、とりあえず外来の用語を使わずに書いてほしい。
序章はいきなりニーチェの引用で始まり、わずか20ページの序章の本文に「ニーチェ」という言葉が47回、「フッサール」という言葉が20回出てくる。他人の言葉に頼らずに自分の考えを一言も表現することができない不自由な頭脳によって書かれているようだ。。
多分この頃の柄谷に影響を受けた人たちによる、ニーチェとかフッサールとかデリダとかフーコーとかソシュールとかウィトゲンシュタインとかハイデガーとかの外国の思想家の言葉をそれっぽく並べた「批評」作品が山のように量産された光景が目に浮かぶようだ。反吐が出る。
他人の言葉で何かを語ったような気になるな、と叫びたくなる。もちろん柄谷自身はそれにはとどまって居ないのだろうが、中身以前に読む気をなくす。
肝心の中身についても、たいしたことが書いてあるわけではない気がする。
不確定原理とか自己言及のパラドックスとか、要はどんな知の体系も突き詰めると無根拠であるとか、ウィトゲンシュタインでいえば、言葉を離れた「意味」というものは存在しないとか、その類の話でしょ?
だからなんなんだよ、で終わり。
あなた自身がなぜその問題にそんなにこだわるのか、ということについて裸の自分を見せてくれないと、批評にはなり得ないんじゃないの?
柄谷が25歳の時に書いて東京大学新聞の評論コンテストに投稿した「思想はいかにして可能か」という論文の冒頭の文章はこうだ。
「すべて思想の名に値する思想は自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証から始まっている。あるいは、思想家は自己を相対化してしまう現実の秩序と生活の地平に耐えねばならぬという恐ろしさを見極めようとする所からのみ生れる、といってもよい。」
この吉本隆明の出来損ないのような、國分功一郎によれば「どうやって英語に訳したらいいのか分からない」悪文を、こんな調子でどんどん「拗らせていった」のが80年代の柄谷文学なのであろう。こんなのが持て囃されていた日本の知的状況と、完全に動物化した今の知的状況のどっちがマシかなんて俄に判断しかねるというのが正直さんぽ