以下の内容はhttps://wellwellwell.hatenablog.com/entry/2024/06/26/115843より取得しました。


Introspection and Retrospection

ほとんど自分しか読んでいないブログに書くことといえば日記しかない。

だが今日何をしたかということを具体的に書くことはできないし、書きたくもない。

たとえアクセス数が一日一桁でも世界中のあるいは未来の誰の目に触れるかもしれないというリスクを抱えている。それを大切にしていきたい。

柄谷行人『内省と遡行』を読もうとしている。解説の浅田彰によればこれは「戦争の記録」らしい。何の戦争かというと、「形而上学の閉域そのものから脱出すること」すなわち「一義的に閉じられた構造すなわち<内部>から、ニーチェのいう『巨大な多様性』としての<外部>、事実性としての<外部>、言いかえれば不在としての<外部>に出ようとすること」を目的とする戦いなのだという。

もっとわかりやすく言いかえてほしい。<外部>とは何なのか。要はなんか窮屈だから自由になりたい、ってこと? 

この本が何やら切実な響きを持っているのは、これらの文章が単なる観念遊戯や「テキストの戯れ」ではなく、著者(柄谷)自身の実存的な切羽詰まった動機を感じさせるからである。

「あとがき」で柄谷は「言語・数・貨幣」を書いている間に心身ともに打ちのめされるような「危機」を経験したと書いている。確かにこれらのテキストは、「のめり込み過ぎると危険」な臭いをプンプンと感じさせる。

六十年代の吉本隆明のテキストが「何が書いてあるのか分からないが何となくすごいもの」として受容されたのと同じように、八十年代には柄谷行人のテキストが意味も分からず文化系の知的刺激を求める人々に受容されたのであろう。

吉本も柄谷も、たとえばハイデガーベルクソンのような哲学者とは違い、文芸批評家を兼務していた。だから純粋な哲学というよりも文学的なテキストとしても読みうる。これは小林秀雄にはもっと当てはまる。小林秀雄を人は哲学者とか思想家とか呼ばない。批評家という。東浩紀のような人がこだわっているのはそういう意味での日本の「批評の系譜」だろう。

 

千葉雅也は『構造と力』の解説の中で、柄谷における「形式化」をめぐる考察は、構造主義に収めきれない外部性・他者性の作動(デリダ脱構築ドゥルーズ=ガタリリゾーム)を問題にしたポスト構造主義に対する他所(よそ)=日本からのメタ視点による構造的再把握であり、これにどう向き合うか、距離を取るか、無視するかという課題はその後の日本人文社会系の諸分野に影を落とし続けていると述べている。つまり千葉から見れば柄谷は(吉本隆明と同じように)日本というガラパゴスにおける一種の思想的変種であり、世界基準からは無視して構わないものという程度の評価なのであろう。それは正しいと思える。

浅田彰は唯一のまとまった思想書である『構造と力』について今年のインタビューで「自分の独自の思想を打ち出そうなどと思っていたわけではなく、少しでも現代思想の風通しをよくしようという動機で書いた」に過ぎないと言ってあらかじめこのような批判(?)を彼らしく上手く躱している。

だが、柄谷や吉本の書物に見られる「陰鬱な切迫性」と呼べるものそれ自体が亜周辺に属するネーションの土着的思想の特徴と言えるのかもしれない、などと冷たく切って捨てるような言い方だけはしたくない。何にせよ当時はその切迫性にはリアリティがあったことは疑いえない事実なのだと思うから。そしてそのような知的リアリティを持つ書物が今の日本には存在しないということもまた事実だと思うから。




以上の内容はhttps://wellwellwell.hatenablog.com/entry/2024/06/26/115843より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14